ぜぜ日記

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日本中を歩いた民俗学者のドラマ「旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三」

長くウガンダにてフィールドワークしていた女の子から薦められた「忘れられた日本人」を読んだのは3年前。つい数十年前の日本には自分が想像もできないような生活をしていた人々がいたことに衝撃を受けた。それを書いた宮本常一はどんな学者だったのだろうと気になってるところに佐野眞一による本書を発見したのが手に取るきっかけ。

宮本常一は長く在野の民俗学者として、病弱な体を押し4000日以上日本各地を歩き続け、1200軒以上の民家に宿泊している。

その希代の民俗学者である宮本と、財閥の御曹司として生まれ、本人の希望とは別に日本銀行総裁や大蔵大臣を勤めるまでになりながらも自身も民俗学者であった渋沢敬三の人生。本書は佐野眞一によるこの2人を描いていた大宅壮一ノンフィクション賞受賞作で本当にいい作品。民俗学・人類学に興味がない人でも手にとって欲しい。

宮本常一と渋沢敬三 旅する巨人 (文春文庫)

宮本常一と渋沢敬三 旅する巨人 (文春文庫)


深い知識と観察眼、そして古老たちから話を聞き出す愛嬌と情熱をもっていた宮本は、これまでの柳田民俗学とは異なる現地に根ざした独自の民俗学を切り開いてきた。学問だけでなく農業技術を各地に広め、経国済民を地で行った人。司馬遼太郎に日本で学問をしている2人のうちの1人で恐ろしい人と評されるまでになっていて多くの村、多くの人に影響を与えている。そして家の重圧を受けながらも民俗学者として成果を出し、パトロンとして宮本や多くの学者を見出し、導いた渋沢。もうこれはロマンですよ。大河ドラマ
宮本の考え方や人柄、周囲の人々との相互作用を読んでいると、この人が日本にいて急速に失われつつあった漁村や農村の情報をまとめたのは奇跡的だと思える。

小さいときに美しい思い出をたくさん作っておくことだ。それが生きる力になる。学校を出てどこかへ勤めるようになると、もうこんなに歩いたり遊んだりできなくなる。いそがしく働いてひといきいれるとき、ふっと、青い空や夕日のあった山が心にうかんでくると、それが元気を出させるもとになる(宮本常一,p58)

20代のころ、大阪泉南で教員をしていたころの言葉。

この伝記では、宮本と渋沢その人の人生のおもしろさだけでなく、その人を通して感じることの出来る激動の歴史も感じることができる。特に宮本も渋沢も絡んでいないとはいえ、大東亜共栄圏の統治手段のために重視されていた民俗学の絡みで、岩畔豪雄の陸軍中野学校や昭和通商、西北研究所それにつながっていた川喜田二郎や梅棹忠雄なども出てくるところは、燃える。

それ以外にも戦争中に村々をまわるとスパイ呼ばわりされる宮本常一終戦時に大蔵大臣としてインフレと戦った渋沢敬三。経済発展で急速に失われる独自の文化と、その寵児、田中角栄も出てくる。

本書はおもしろいだけでなく読みやすいのでおすすめです。著者の佐野眞一は、最近は橋下徹市長のノンフィクションで叩かれていたけれど、おもしろいものを書いている。

宮本常一ではまずまっさきにあがるのがこの本。これも、エピソード的ではあるのだけれど印象深いものばかり。

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

おまけ:本文中に出てきてメモしたた言葉

大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況をみていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見逃してしまう。その見逃されたもののなかにこそ大切なものがある。それを見つけてゆくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人がすぐれて仕事をしているとケチをつけるものも多いがそういうことはどんな場合にもつつしまなければならぬ。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要を認められないときは黙ってしかも人の気にならないようにそこにいることだ

渋沢敬三,p88)

財界でも学界でも中心に居てはいけない。いつも少し離れたところに居るべきだ。そうしないと渦のなかに巻き込まれてしまう。そして自分を見失う

渋沢敬三,p184)

銀行屋というものは、小学校の先生みたいなものです。いい仕事をしてだんだん成長した姿を見て、うれしく思うというのが、本当の銀行屋だと思いますね。えらくなるのは生徒です。先生じゃない

渋沢敬三、p160)
名銀行家であり名伯楽でもあったらしい。

昭和二十八年離島振興法という法律が出来て、十二年になり、二十八年に七億ほどの離島予算が昭和四十年には九十億をこえるにいたったのだから、島民にとって結構なことのように思えるが、私には多くの危惧の念がある。その一つはどうも無駄遣いが多すぎるように思えるのである。田舎では貧乏なものが多少金を持つと、何はさておいても家の改築をはじめる。そして外見のよそをきそう。離島振興の実情を見ていると、それに似た現象がきわめて多い。家だけは立派になっているのが生産の方は大してのびていないといった姿である。もっと再生産のための設備投資に本気になれないものか。これではいつまでたっても島が本質的な力で本土に追いつく日はない。

宮本常一,1965年,「日本の離島」第二集あとがきより孫引き)
離島振興法は、その成立のために宮本も尽力している。これを成長まっただ中の1965年に指摘しているというのは慧眼と思う。

「就職するな。遊べ」「給料をもらうと堕落する。眠っていても金が入ってくるからだ。(宮本常一,p423)」

うーん。。



(※追記)
気になって読み返して探した言葉

大阪に丁稚奉公に出る際に父から受けた10の餞別の言葉

(1) 汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
(2) 村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

(3) 金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

(4) 時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。

(5) 金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。

(6) 私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない、すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。

(7) ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。

(8) これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならない。

(9) 自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

(10)人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大切なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。