努力は、多くのフィールドで成功に欠かせない条件だと思う。もちろん成功は保証はしないけれど努力のない成功は少ない。
(成功ってなんやねんとか努力ってなにーさ、というのはさておき、以下、主観的な感想文です)
成功に必要なのは才能か努力かみたいな自分を慰めるための議論はよくあるけれど、努力が成功の要素として大きいというのはみんな認めている。その努力を続けられるのが才能、と言われることもある。
自分から努力できる人は、少ない。ほとんどはなにかのきっかけに依っていると思う、その努力対象に楽しみを見いだせたり、才能があって優越感に浸れるからというのも多い。なにかに憧れて努力するというのもある。憧れはたいてい一面的な先入観によるけれどその是非は問わない。
本人は努力と思っていないことも多いけれど、これはたぶん、美談になる努力。
そして他者から強制される努力もある。
特に某居酒屋チェーンみたいな利益を出すために従業員の努力(犠牲)を強いる企業( 渡邉美樹氏ツイートについて思うこと | No Second Life)や、勝ちたいと思っている中高の部活のコーチ、遊びたいざかりのご子息ご息女を良い中学校に入れたいと思ってる教育ママなどなど。
ワンマン社長やコーチや先生、親に強制される努力。プレッシャーをかけたり、さも当然というふうに装ったり、スパルタ式であったり、人参をぶら下げるやり方もあるし暴力を用いるものもある。
たいてい、本人のため、という義にあふれる美しい動機が語られるけれど、多くは無自覚の自己のエゴの押し付けであったり、利益をあげるための手段な気がする。これは、強制労働と変わらない。
ただ、たとえ強制がきっかけであっても、本人があとあとになって幸せだと感じる例はあるし、そのあと好きになることもある。だから、努力の強制は、美しくないなとは思うけれど必ずしも悪いことではないと思う。
それを本人がどう受け止めるか、幸せになるかはわからないけれど。
そして、もう1つ、ここまで述べた自発的な努力と強制された努力の間には曖昧な領域が少なからずある。それは「自発的と思わせるように誘導された努力」。
誘導的に目標を設定させて、それが素晴らしいように吹きこんだり、認めさせてそれが楽しく有意義なことと錯覚させるテクニック。そして自分の自発的な意思であるように感じさせる。
それを意識的に使っている新興宗教の洗脳者もいれば、リーダーシップとかコーチングとか説得術とか行動経済学、子どもに勉強させう方法などと称するツールとして無自覚に使っている人もいる。
本人が強制されたと感じていない以上、法的には問題ないのだろうけど、ちょっと気持ち悪い。これも悪いことではないけれど、人を洗脳できる強力な手段を無自覚に使っている人がいることがすこし怖い。人と仕事をする社会では必須のツールなのかもしれないけれど、その対抗手段がないのが恐ろしい。
参考:東海大学付属第四高等学校の生徒の皆さん、目を覚ましてください - 今日も得る物なし
おまけ:自分の周りで努力できてる(ように見える)人の技法
- 勉強はゲーム
- RPG的にレベルをあげる
- 他の冒険者と競う
- 受験とかTOEICとかは対策ゲーとのこと
- (テストという指標のない勉強だとどうすればいいんだろ)
- まわりを巻き込む
- 定例の勉強会とか読書会など。自分一人の問題にしない事で継続する。
- この資料を書き上げたらおなにーする、みたいにがんばった自分へのご褒美作戦
- スイーツの男版?
- それが楽しいことであると自己洗脳する
- 必要性じゃなくて、その努力に因るバラ色の未来を想像するのがコツとのこと
- 宣言と周知
- 自分は〜〜をやる、と周囲に言いまくることで自分を縛る
- 見栄とか一貫性を保つために努力するようになるらしい
- 念能力の誓約とか、オープンリーチとかみたいなもの?
ほんとに努力してる人は、それが努力だと思っていないようなので参考にならないですね・・・
(なんで自分は努力を継続できないとか考えてたら、良いとか悪いとか倫理的とか主観的なことをいろいろ書いてしまった・・