「わたし」はとある小さな会社で働く特筆することのない人間だ。ある友人が、いわゆるボーイズラブものの漫画を読んでいて、素朴に、あの職場のかっこいい人もこんなふうに素敵な人と出会って恋に落ちるかもね、と言った。
漫画上のものをきっかけとした他愛のない話*1なんだけれど、この考えを「わたし」は見過ごせず、少し口論になってしまった。 看過できなかったのは、人が「(素敵な出会いなどの)何らかの出来事」によって性的指向が変わるという考え。 この考えは、何らかの要因によって人の性的指向が変わること、つまり、後天的に異性愛から同性愛に変わりうるということを意味する。それは、同性愛になることをコントロールできうる、つまり矯正できうるということと地続きだではないか、と「わたし」は考えた。これは「不健全な」創作物を弾圧する口実にもなってしまうし、子どもが同性愛になったのは親の教育のせいだ、ということに繋がりかねない。
これは誰の望むところでもないとは思う。 悪意がなくとも、子どもためを思う善意によってかつて多くの漫画が焼かれたことを思うと、矯正できうるという考えは弾圧を助長しかねない。だから、あまり後天的に同性愛になりうるという考えは良くないのでは、という話を友人にした。
すると、友人からは、それは人の自由意志を束縛する考えなのでは、という反論を受けた。後天的に同性愛になることを認めないというのは同性愛者は良くないものと差別する考えだ、と。
「わたし」はそれを聞いて考え込んだ。 後天的に同性愛になる考えを認めるべきではない、というのは、弾圧者に口実を与えないための論理だと思っていたけれど、これが差別にもなりうるのだろうか。 もちろん、幼少期に性的指向を自覚していなく、長じて自覚することを自分で変わったと表現することはあるかもしれないし、同性だけの環境に押し込められることで一時的に同性愛的な行動をとる、機会的同性愛*2というものもあるらしいけれど、そういうことではない。 「わたし」と友人は、おそらくお互いに納得のいかないまま、別の話題に切り替えていった。
※ この論争は実際にあったものを題材に脚色した架空のものですが、どこの論理が間違っているでしょうか。みなさまはどう思いますか?
*1:他愛はあるか