ネットのどこかで知って気になっていた本。新宗教的なコミューンを志向する団体での体験や、人類学者のカスタネダが記したナバホ族の呪術師ドンファンとのやりとり、マルクスなんかを引用して、共同体のありかた、ひいては人間の生き方を考えている。初版は1977年とのことで48年も前だし、ややこしいところもあるんだけれど、思考が明晰であることがよいことではない、社会の進歩が全肯定されるものでもない、といった考えるためのヒントがあった。
ただ、マインドコントロール的な手法で取り込み無償労働に従事させているヤマギシ会を無批判に紹介しているのは注意(まあ、これを紹介した米本和広の「洗脳の楽園」は1997年なのでこの著者が触れた時期にはまだひどくなかったのかもしれない)。
まとめにくい本ではあるけれどいくつかメモした箇所と雑感
啞者のことばをきく耳を周囲の人がもっているとき、啞者は啞者でない。啞者は周囲の人びとが聴く耳をもたないかぎりにおいて啞者である。 啞者とはひとつの関係性だ。啞者解放の問題は、「健康者」のつんぼ性からの解放の問題だ。奴隷の解放と主人の解放、第三世界の解放と帝国主義本国の解放、女の解放と男の解放、子どもの解放と親の解放、すべての解放が根源的な双対性をもつこととおなじに。
これは「上下関係」「加害者-被害者関係」をあいまいにすると反発を持つ方もいるかもしれないけれど、問題の把握・解決のためにも必要な視点かもしれない。依存関係でのイネイブラーも連想した。
一人の幸福が他の不幸を前提とするという相剋性の連鎖のうちにあるかぎり、「最大多数の最大幸福」は少数者圧殺のレトリックとなる。
〈土着と近代〉について語るとき、土着を日本的なもの、近代を普遍的なものとしてとらえる見方は偏狭なものにすぎない。日本の、中国の、インドの、ラカンドンの、トロブリアンドの土着があり、ヨーロッパにさえ土着があるはずだ。〈近代〉を特殊性として、〈土着〉を普遍性として とらえなければならない。
いまでこそ、土着性をテロワールといったり大切にする流れもでているけれど、これだけ資本によって都市も再開発され土着性が薄まってしまった現代ではまた変わってきているようにも思える
マルクスのいう「資本の巨大な 文明化作用」「布教的( 文明化的)傾向」とは、ある種の近代主義的なマルクス主義者たちのもてはやすように、資本主義にも肯定的な側面もあるなどという(それは当然の)問題ではなく、歴史的な諸共同体をつぎつぎと風化し解体し、巻きこみひきずりこみながら「一つの世界」へと結合する、資本制世界のデモニッシュな拡大傾向に他ならない。
資本主義について1970年代にこういう洞察があったのか(そして現在でも止められていない)。これは、「現代経済学の直観的方法」で語られていた内容にも通じる。
われわれが他者と関係するときに抱く基本の欲求は、二つの異質の相をもっている。一方は他者を 支配する欲求 であり、他方は他者との 出会いへの欲求 である。操作や迎合や利用や契約は、もちろん支配の欲求の妥協的バリエーションとしてとらえられうる。 支配の欲求にとって他者とは、 手段 もしくは 障害 であって、他者が固有の意思をもつ主体として存在することは、状況のやむをえぬ真実として承認されるにすぎない。
うーん・・・認めにくいけどそうなのかもしれない。この真実を認めることによって、自己の「善意」みたいなものの裏を考えられるかも。
「欲求を解放する」というテーゼにたいして、道徳主義者からきまってよせられる反論は、それが「野放図なエゴの相克」をまねくだろうという危惧である。人間が人間にたいして狼であるというホッブス的な幻想を、彼らはアプリオリに前提している。彼らのひからびた想像力は、「欲求の解放」ということばのなかに、まさに最も解放されていない欲求をイメージしている。 「欲求の解放」とはなによりも、欲求そのものの解放である。 欲求を解放する とは、 解放する欲求 を生きること、対象を解放し、他者を解放し、自己自身をたえず解放してゆこうとする欲求を生きることである。
「滝山コミューン一九七四」では、"進歩的"な教師による学校での取り組みが紹介されていたように、この時代はまだ素朴にコミューンに期待する空気があったのかもしれない。資本主義のもとで快適な社会がつくられている現在では、私有制をなくすことが想像しずらく、そういったハードなコミューンは志向されず、せいぜい資本主義の辺境としての自給的な暮らしとかが近いのかなあ。あるいは新宗教内コミュニティか。