明治時代に海外で起業した男の話を読んで衝撃を受けた。
1891年にシンガポールで起業というのは海外を拠点に事業を起こした日本人として初ではないか、とは思う*1。そして彼が堂々とやっていた事業は吐き気を催すようなものであった。
若者はもっとグローバルな経験を積んで起業しろ、みたいな無責任な風潮がある昨今、この起業家の話はもっと知られてもよいと思うのだけれど、Wikipediaもゆるい書かれ方をしているし、ほかにもこれといって記事がないしこの人を扱った本も絶版になっている。
というわけで宮本常一らによる「日本残酷物語I」から引用してこの起業家、村岡伊平治の人生を紹介してみる。
この頃の民俗学でよくあることだけれどあまり出典や採集状況が記述されていないうえ自伝は脚色が多いとされている*2という前提の上で読んでみて欲しい。
その男、村岡伊平治は慶応3年(1867年)に長崎県島原の荷受問屋に生まれた。13才のときに父が急死、家が没落し17才に長崎を出たという。
弟妹6人と母、それに自分の妻を抱えてその日を生きるのに精一杯であったが香港で行商すれば稼げるという話を聞き資金を集めて翌年の12月には友人とともに長崎を出港。
しかし到着してみると実際に商店を開くには資本がまったく足りず路頭に迷った末、海員宿泊所で誘われて水夫になっている。
このときに日本人の女が多いことにもおどろいたらしい。その大部分は女郎であり、中国人の妾であったそうだ。
結局3ヶ月半で香港を去り、水夫として船でこきつかわれる。7ヶ月目に天津で海に飛び込み脱出に成功する。
そこの日本人の理髪店で雇われてこまめに働いており受けも良かったとのこと。
天津を5ヶ月でひきあげて9月に上海へ。そこにいた数多くの日本の女たちの故国への送金の世話をして重宝がられその手数料で食いつないでいた。そこで領事館から呼び出しがあり、陸軍中尉上原勇作(のちの上原陸軍元帥)の従者として行商人に化けて満州へ軍事探偵をすることになった。5ヶ月間におよぶ視察旅行にて日本の女たちが大陸奥地の町々にまで売られていることを知った。この経験が後の起業のアイデアになったようである。
ある日、伊平治は誘拐されて上海郊外に監禁されていた日本の女5人を救い出した。このとき救い出された女の口から厦門(アモイ)の奥地にも同じように監禁されている女が500人以上居るということを耳にしたらしい。1888年の7月、これを救出するために上海を発った。
イギリス領事館へ行って協力してもらいイギリス人諸規制1名と中国人の警官3名で出発。
ここの過程はあまり記録に残っていないが、いちおう成功して女30人を連れ帰ることが出来たらしい。
大多数が官吏・豪農・士族・商家などの令嬢であり、年齢は14才から20才前後のものがほとんど。そろいもそろって美人だった。いずれも海外の生活に憧れてだまされて、水揚料300円から1500円くらいの値段で中国人に売られてきたことが分かった。第2回の救出では13人、第3回は12人を救出したが費用もかさんで領事館の警官も同行を承知しないために断念したそうだ。
救出した女55人は伊平治を命の恩人として慕うものの金もかさむし世話も手が回らない。そして女たちに相談すると「あなたの指図ならどこへなりともまいります」と言う。そして各地の女郎部屋に渡りをつけて香港、トンキン、シンガポール、カルカッタなどへ売り渡すことになった。
しかし、英雄伊平治はこのときの女売買に味を占めて女衒*3家業に乗り出すことになる。そしてミイラ取りがミイラになった形でしだいに南洋一円に組織を広げていく。
伊平治は1889年にシンガポールに渡り女郎屋の留守宅でやっかいになった。ここの捕まった主人の妻や友人の支援により女郎屋を経営することになり、それから徐々にシンガポールに地歩と名声を築いていった。
まず伊平治が目をつけたのは賭博場。シンガポールの日本人には前科者や流れ者が多く博打が盛んでいつも争いが絶えず警察も手を焼いていた。伊平治は年600ドルの鑑札料を警察におさめて官許のもとで賭博場をひらいた。この寺銭で大変儲け、しまいには賭博場の警察権まで手に入れてピストルを警察から貸してもらいヤクザの不正や暴力も取り締まり「金さん」という尊号で恐れられるようになったそうだ。
次に伊平治は誘拐者の宿元をすることに目をつけた。
誘拐者のほとんどは資本をもたず、彼らがせっかく内地から女を誘拐してきても女ひとりにつき10円の入国税をおさめなければその女は没収されるし上陸も禁止される。そこで伊平治は誘拐されてきた女を家に泊めてやり、女から高い宿泊料をとり密航運賃もたてかえてやる。これで女がどしどし誘拐されてくれば宿元の収益もあがる。
そこで前科者や浮浪人をあつめ、三度の食事を与えてしばらくのあいだ住まわせた。
人数もそろたころに伊平治がたれた訓示が感動的なので引用する。
「今日は皆さんと乾杯したいと思うから、ゆっくりしてもらいたい。これまで諸君をただで泊め、高い米を食わせ、些少ではあるがこづかいまであげて遊ばしているのは、実は目的があってのことだ。おれが諸君にいいたいのは諸君が生まれながらにして日本国民として国家に仇をなし、国民性を失い、身をもちくずして、尊い祖先の墓に足を踏み入れることも出来ぬ人間になりさがっていることである。おれはそのことをまことに不憫に思うのである。そこでおれは、諸君がいま一度りっぱな日本国民になり、国家をきずきあげる大事業にたずさわり、一人でも多く国家にご奉公する人間になることを願うのである。」と前置きして、さらに、
「そこで諸君を真人間にするために、百円か二百円ずつの金をやることにする。その金で諸君は二、三ヶ月のうちに四、五千円の財産をつくることができる。その金をもって故郷に錦をかざることもできれば、好きな事業を始めることもできる。それまではおれが充分保護してやる。ただしそれがためには、いま一度だけ国法を破り、罪をかさねて、そのうえであたらしく生まれかわる必要がある。」として各人に日本から娘を誘拐してくることを申しわたした。彼らは最初ぽかんとしていたが、やがて伊平治が最後に
「そこで諸君、みんなで天皇陛下におわびをいたし、国民の一人として改心するよう八百万の神々に祈ろうではないか」と熱涙こめていいおわり、一同立ち上がって君が代をうたい、天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下、帝国陸海軍、および南洋在住の同胞のために万歳を三唱すれば、彼らはすっかり感動にむせび、改心のために誘拐に出で立たんと誓い合うのであった。
天才的なリーダーシップを感じる・・・。
伊平治は彼らを日本へ発たせる前に綿密な誘拐の術を伝授した。
曰く、繁華な土地では誘拐するな、資産家の娘と女学生は誘ってはならぬ。なるべく学問のない者を選ぶようにせよ。また家に子どものある女には10円以上わたさず、話がついたら10日以内に家出するようことをはこばねばならぬ。船では事務長か司厨長に話をつけて胸に緑色のリボンをつける、などなど。
その結果、伊平治の誘拐団は多くの女性を日本から連れてきてピナン港、イポー市、クアラルンプール、レレ村、メダン、メグイ村。その他、ラングーン、カルカッタ、サイパン、オーストラリアのフルガルテンや南アフリカのトランスバールなど世界の多くに送り込んでいる。この女たちの積み出し港は長崎、神戸、門司、口之津、横浜、清水、唐津、その他外地で香港や上海、厦門を経由していたのもありいかに組織的で広範なものかがわかる。
村岡伊平治が手がけた女の数は手記によると明治22年から27年のわずか5年間にシンガポールで手がけただけでもじつに3222人の多きにのぼっているとある。
1人あたり600円で売れるそうで、当時の1円がいまの3800円というこの記事の価値を使うと、1人230万円。1年間で600人売れるとすると年商10億を超えている。
やがて会社は規模も大きく多角的になり、全体をホテル部、女郎屋部、奥地農業部、賭博場部、誘拐業部、女郎取引部、前科者掛、通訳、帳場の9部門に分けている。このように、貧しい島原の人力車夫から、弱冠24才にして南洋一円の女郎屋の総元締となっている。
シンガポールでの伊平治の仕事は誘拐団だけではなかった。日本人会の組織、日本人墓地の設立、モアやボルネオのサンダカンにおこした開墾事業。そのための移民集め。
伊平治は日清戦争がはじまって華僑との折り合いが難しくなったのを機会に1895年に女6人を連れてジャワのバンジェルマシンへわたった。そこからスラバヤ、ニューギニア、ティモール、クパン、セラ島。マニラと移り歩いている。その過程で、愛国婦人会を結成したり、日露戦争の献納金を募集したりと国に半ば見捨てられたような形であるけれど骨を埋めたのはフィリピンのレガスピとされている。(Wikipediaでは妻の故郷の天草とされているが出典不詳)
伊平治の手記に残された文章に彼の哲学が現されている。現代語に読みやすくしたものを引用する。
前科者は早く金を貯めて一人前の人間になりたいと考えるようになる。現に毎日30ドル、50ドルというの金が入ってくる。だから女たちを大事にする。盆や暮れには女たちのことを考えて国もへ送金してやる。したがって女たちは主人を親のように大事にする。一家は円満に立ってゆく。夢の間に1000円、2000円の金がのこる。泥棒も善人になり、他人に施しをするようになる。女たちも金時計、ダイヤの指環、上等の靴などを身につけるようになる。国もとには便りをしないでも(字を書けない者が多く、また事情を知らせたくないので 筆者注)、毎月送金する。両親も安心する。近所の人々の評判になる。これが村長にも知れ、家に所得税をかけてくる。国家のためどれほど有益か分からぬ。1人の前科者のために女10人と、その家族まで裕福になるのである。南洋ではどんな田舎町でも、そこに女郎屋ができると雑貨店ができる。日本から店員をよびよせる。その店員がやがて独立して新しい商店をひらく。また大会社が出張所を設ける。また女郎屋の主人も、ピンプ(女郎屋)とよばれるのがいやなため商店をひらく、すると1年かそこいらで開発する人々がふえてくる。また船が寄港するようになる
伊平治は若くして金銭的に成功しただけでなく南洋開発に貢献しているし社会活動も大いにしてる。けれど、その一方でその裏では多くの日本人女性がだまされて異国にて悲惨な生活を送ることになっている。当時の倫理感覚は現代と違うとはいえ、この二面性がおそろしすぎる・・・。
本気の「善意」で動いているようにみえるところは某ブラック企業W社の創業者に被る。一見、ダブルスタンダードのようなことを本人が気付かずに自分の正しさを確信している。これは外からみると違和感があるけれど、かなり大きな推進力になっていると思う。もしかしたら、大きな事をなすためにはこのくらいの視野狭窄が必要なのかもしれない。と思った。
すこし主観が過ぎたけれど、本書ではその「からゆきさん」たちの悲惨な人生も多く取り上げられているので興味があればぜひ。
「日本残酷物語」は宮本常一ら民俗学者による暗澹とした気持ちになること請け負いのノンフィクション。残酷と言うよりは無情さを感じる。
多くの人々が死んだ飢饉。慢性的な貧困と、常態化する堕胎・間引き・人身売買。人々を静かに殺していく奇妙な風土病は日本各地にあり炎のように広がる疫病も死体を増やした。炭鉱で奴隷のように働かされる女性、農村で名も無く奉仕させられる妻たち。そういった事実があったことはうっすら知ってはいたけれど、当時の文献をもとに取り上げられたその実態は想像をはるかに越えていた。飢饉の際には死体は片付けられず、人肉の味を覚えた野犬が人を襲い食人も珍しくなくなる。人々は村の外に対しては冷酷で自分が生きるのに精一杯。
各民俗学者が各地で採集した話ということで、伝聞でバイアスがかかっている問題はあるだろうけれどこういったことが少なからずあったのだとは思う。
この本を読むと今の日本は恵まれているなと思う。その一方で、金銭的に恵まれて食に困る人がすくないから表面に出てきにくいだけで人の内面は変わっていない。排外的な差別、他者への無関心さと抑圧は今なお続いているものなのでは、と。「顔のない女たち」や「漂白される社会」とか。
ただ本作中には幸福な話も混じっている。ほか有名なものでは土佐源氏とか*4。
これも含めて、これからの日本を考えるには昔の日本の残酷さを知っておくと良いこともある、かもしれない・・・