ぜぜ日記

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苦海浄土(石牟礼道子)感想

ここは、奈落の底でござすばい、 墜ちてきてみろ、みんな。 墜ちてきるみゃ。 ひとりなりととんでみろ、ここまではとびきるみゃ。 ふん、正気どもが。 ペッと彼女は唾を吐く、天上へむけて。 なんとここはわたしひとりの奈落世界じゃ。 ああ、いまわたしは墜ちよるとばい、助けてくれい、だれか。

苦海浄土石牟礼道子)を読みました。

水俣病を描いた有名な作品です。厳しさのある重いタイトルや、池澤夏樹編集の世界文学全集に日本から唯一選ばれていたりとハードルはあったのですが、それ以上にすさまじい本でした。水俣で育った主婦が、たまたまこの病気のことを知り、患者や患者家族を訪ねて歩いて話を聞き書きしたりまとめていった本。

水俣病は社会の教科書でも公害として学び、Wikipediaやなんやかで知っていたつもりではあったけれど全然だった。水俣という熊本の南はじの自治体のなかでも、漁民の問題として、国だけではなく地域でも抑圧されてきていることが本当につらい。

ただ、それでも、海と、海との暮らしの豊かさの描写はほんとうに美しいし、憧憬を感じてしまいます。

年に一度か二度、台風でもやって来ぬかぎり、波立つこともない小さな入江を囲んで、 湯堂部落がある。湯堂湾は、こそばゆいまぶたのようなさざ波の上に、小さな舟や鰯籠などを浮かべていた。子どもたちは真っ裸で、舟から舟へ飛び移ったり、海の中にどぼんと落ち込んでみたりして、遊ぶのだった。

漁村の光景の眩しさよ・・・

どのようにこまんか島でも、島の根つけに岩の中から清水の湧く割れ目の必ずある。そのような真水と、海のつよい潮のまじる所の岩に、うつくしかあをさの、春にさきがけて付く。磯の香りのなかでも、春の色濃くなった あをさが、岩の上で、潮の干いたあとの陽にあぶられる匂いは、ほんになつかしか。  そんな日なたくさいあをさを、ぱりぱり剝 いで、あをさの下についとる牡蠣を剝いで帰って、そのようなだしで、うすい醬油の、熱いおつゆば吸うてごらんよ。都の衆たちにゃとてもわからん栄華ばい。あをさの汁をふうふういうて、舌をやくごとすすらんことには春はこん。

磯の香りを感じる。

魚は舟の上で食うとがいちばん、うもうござす。  舟にゃこまんか鍋釜のせて、七輪ものせて、茶わんと皿といっちょずつ、味噌も醬油ものせてゆく。そしてあねさん、焼酎びんも忘れずにのせてゆく。  昔から、鯛は殿さまの食わす魚ちゅうが、われわれ漁師にゃ、ふだんの食いもんでござす。してみりゃ、われわれ漁師の舌は殿さま舌でござす。 (中略) まだ海に濁りの入らぬ、 梅雨 の前の夏のはじめには、食うて食うて(魚が餌を食う) 時を忘れて夜の明けることのある。  こりゃよんべはえらいエベスさまの、われわれが舟についとらしたわい。かかよい、エベスさまのお前に加勢さしたぞ、よか漁になった。さすがにおるもくたぶれた。だいぶ舟も沖に流された。さて、よか風の、ここらあたりで吹き起こってくれれば、一息に帆をあげて戻りつけるが。  すると、そういう朝にかぎって、あの油 凪ぎに逢うとでござす。  不知火海のベタ凪ぎに、油を流したように凪ぎ渡って、そよりとも風の出ん。そういうときは帆をあげて、一渡りにはしり渡って戻るちゅうわけにゃいかん。さあ、そういうときが焼酎ののみごろで。 (中略) かかよい、 飯炊け、おるが刺身とる。ちゅうわけで、かかは米とぐ海の水で。  沖のうつくしか潮で炊いた米の飯の、どげんうまかもんか、あねさんあんた食うたことのあるかな。そりゃ、うもうござすばい、ほんのり色のついて。かすかな潮の風味のして。  かかは飯たく、わしゃ魚ばこしらえる。わが釣った魚のうちから、いちばん気に入ったやつの鱗ばはいでふなばたの潮でちゃぷちゃぷ洗うて。

海水でご飯を炊くというの気になる。

しかし、水俣病の症状は激烈。すぐに死をもたらす劇症型もつらいが、永年症状と障害を残すものもつらい。

うちの部落で死んだ大将は、打ち殺しても死なんごたる荒しか男じゃったですが。十一月二日のデモのときは、その大将が一番のりして、会社の正門にかけのぼり、会社が開けんのを内側に飛びおりて開けた男でしたが。デモ隊が会社にはいれたのはあの篠原保がおかげでしたもん。それが、アウ、アウちいうて、モノもいいきらん赤子んごてなって、あの大将がころっと二週間ばかりでうっ死んだ。

子ども患者の描写はことさらに厳しい。

ひとりで何年も寝ころがされている子たちのまなざしは、どのように思惟的な眸よりもさらに透視的であり、十歳そこそこの生活感情の中で孤独、孤絶こそもっとも深く培われたのであり、だからこの子たちがバスに乗り、その貌が一途に家の外の空にむけてかがやくとしても不思議ではなかった。

うちは、もういっぺん、元の体になろうごたるばい。親さまに、働いて食えといただいた体じゃもね。病むちゅうこたなかった。うちゃ、まえは手も足も、どこもかしこも、ぎんぎんしとったよ。  海の上はよかった。ほんに海の上はよかった。うちゃ、どうしてもこうしても、もういっぺん元の体にかえしてもろて、自分で舟漕いで働こうごたる。いまは、うちゃほんに情なか。月のもんも自分で始末しきれん女ごになったもね……。

水俣の言葉で語られる文章の迫力も。

「あきらめとる、あきらめとる。大学の先生方にも病院にもあきらめとる。  まいっちょ、自分の心にきけば、自分の心があきらめきらん。あんたなあ、ゆりに精根が無かならば、そんならうちは、いったいなんの親じゃろか。うちはやっぱり、人間の親じゃあろうかな」 「妙なことをいうな、さと」 「ゆりは水子でもなし、ぶどう子でもなし、うちが産んだ人間の子じゃった。生きとる途中でゆくえ不明のごつなった魂は、 どけ 行ったち思うな、とうちゃん」 「おれにわかろうかい、神さんにきいてくれい」 「神さんも当てにはならんばい。この世は神さんの創ってくれらした世の中ちゅうが、人間は神さんの創りものちゅうが、会社やユーキスイギンちゅうもんは、神さんの創りもんじゃあるめ。まさか神さんの心で創らしたものではあるめ」

水俣病にかかった人やその家族の描写はかなりつらいのだけれど、それにもまして、チッソの対応や、チッソ(当時は新日本窒素肥料株式会社)関係者が多い水俣においては、町の将来のためと罹患者への抑圧があったことも悲しい。

水俣病患者の百十一名と水俣市民四万五千とどちらが大事か、という言いまわしが野火のように拡がり、今や大合唱となりつつあった。なんとそれは市民たちにとって、この上ない思いつきであったことだろう。それこそがこの地域社会のクチコミというものだった。

もし自分の家族がかかったらどうしていただろう、とか自分がかかわっていたり街の主要な産業で被害を被った相手にどう振る舞えるだろうか、と考えてしまう。どうできていたらよかったのだろうか、と。

ひとつほっとしたのは、最初に水俣病を病態として発見し、調査や動物実験で原因を確信し、会社にも進言した新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一医師や、細川医師から依頼を受けて、動員をかけて足を動かして患者のいる漁村の全住民リストを調査した熊本大医学部など、専門家の職業倫理。

細川氏がその高潔迫力ある人格を貫き、卓越した調査研究を続行せられたことと、附属病院の本家である新日窒水俣工場がみせたあらゆる態度とは、そのあまりにも見事な対比は、今となっては、それぞれに古典的な意味さえ持つのである。

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ちょうど、滋賀で水俣曼荼羅という映画の上映会がある。372分・・・3,600円で悩む・・・。8/4の回をみようと思っているので、どなたか一緒にみるかたいれば昼食ごちそうするのでお声掛けください。

aoibiwako.org