ぜぜ日記

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事実の証明:警察官の依頼で答申書を書いたお話。

先日、たまたまある出来事を目撃してしまい人生ではじめて警察に答申書を提出してしまった。

その過程で気になることがあったのとあまり派手な事件でなかったからかGoogleニュースでも出てこないので少し日記代わりに書いてみる。オチとか有用な情報はありません。


事件性のあったところだけかいつまむと、閑散とした景色の良い駐車場にて緑色のパンツを履いた人間が停めてあった乗用車に拳大の石を投げつけていた。さらに気付くと近くに駐車してあったパトカーのドアガラスが粉々に砕かれている。そしてその現場を目撃していたのは自分と友人しかいなかった。

その前後で耳に挟んだ事情はまるで物語のように感情的で悲しいものであったけれど本題から逸れるので省略。

その後、警察と緑パンツが押し問答をしているのを見たのち、隣の建物にいたぼくらに気付いたのか警察官がやってきた。


物腰の柔らかな30半ばくらいの巡査長から目撃したことを教えて欲しいと頼まれる。パトカーのガラスが割られた現場を見ていることを期待していたようだけれどそれは見ていないと返答。乗用車に石を投げつけているところと、その緑パンツから話しかけられたことを説明したところ、その目撃情報を答申書に書いて欲しいと話があった。



周囲に誰も居なかったことと時間の範囲から「状況的には」その緑パンツがパトカーのガラスを破った可能性は高そうで、そのための証拠らしい。
影響はあるかと聞くと、緑パンツは自分でもガラスを割ったというたぐいのことを言っているからまずないとは思うが裁判になった際に用いられることがある。さらに100に1つくらい、裁判所で証言してもらうことがあるかもしれない、と言う。


未経験のことですこし興味があったのでぼくらが書いたことをその緑パンツに知らせないことを念押ししたのちに書くことを請け負った。



まず「答申書」とはなんだろう?

答申のために提出される書面。主に行政機関などから諮問があった場合に、諮問機関となる審議会などが提出するものを指す。

答申書とは - 日本語表現辞典 Weblio辞書

あまりよくわからないし法的に根拠があるわけではないのかもしれない。本当はその場で答申書とはなんなのか聞ければ良かったのだけれどそのまま書いてしまった。


どういう内容を書けば良いか聞くと、どういう事実を見たかあなたの言葉で書いて欲しい、という。
巡査長の持ってきたチラシの裏紙、その最上部に答申書と書き、日付・名前を書いて状況を書いていった。

2013年8月X日、どこどこにこういう理由でいるときに、こういう人がこういう行為をしていたのを目撃した

みたいなことをA4で2ページにわたってボールペンで書き続ける。途中、巡査長から誰といたか書いて欲しい、なぜここにいたか書いて欲しい。ほかにだれもいなかったのならそういうことも書いて欲しいと言われる。

誘導的、とまではいかないけれど手が止まると方向性を示される。

ひととおり書いた後にどういう仕事しているかも追加で書いて欲しいと言われる。なぜ必要なのかと聞くと「そこらの無職の人が見たと言うのと、総理大臣が見たと言うのでは重みが違うでしょ」と言われた「それはひょっとして高度なギャグですか」と返したけれど返事なし。とりあえず「会社員」とだけ書いておいた。


最後に、拇印と2ページに合わせて割り印を押す。これで指紋をとられることはないと思うけれど記録に残りにくいように指の先だけをつける。巡査長はそれに気付くとこんなのでは指紋は調べられないよ、と言う。

これを提出して雑談してお別れ。全部で40分くらい。



事件についてその後どうなったかはわからない。
けれど、もしかすると自分の書いた答申書が証拠となって緑パンツの罪が決定するかもしれない。
パトカーのガラスを破ったところは見ていないけれど彼の自白と自分の答申書があればまず間違いなく彼がやったとされると思う。


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提出した後にすこし考えてみた。
もし、これの状況がすこし違ったらどうなるだろう。自分がお酒を飲んでいたら、緑パンツがそこにいたとしても紳士的な対応をしていたら、ほかの人間が居たら。あるいは、自分が少し答申書に情報を盛ったとして、それが気付かれることはあるのだろうか。

駐車場に緑パンツしか居ない中で石を投げつけるというはっきりした行為は確信をもって書ける。
けれど、たとえば電車の中で痴漢とおぼしき行為を目撃した場合、人がたくさんいて接触せざるを得ない状況のなかで確信を持てるだろうか。

電車内と駐車場のあいだに明確な境界はない。自分が確信するかどうか次第でそれは容易に印象操作されうると思う。

被害者や容疑者の態度によって印象が変わればそのときの記憶も影響を受けて証言の言葉遣いも変わるかもしれない。「手が触れているように見えた」と「執拗に触っているのを見た」では大きく違う。かよわい被害者が触られたと泣いていて加害者が「いかにも」そうな人間でさらに前科があれば自分の記憶の色も変わるかもしれない。そしてその微妙な違い、自分の目にそう見えたということと実際にあったことは区別されないと思う。

さらに、目撃者が文章が苦手で警察官も忙しい状況だと「こういうのを見ていたら、そう書いてください」といった誘導が簡単に発生してもおかしくない。

ひとりの目撃証言が決定的になることはほとんどないにしても、被害者の印象や、容疑者の態度、警察官の先入観などいろんな誤差が積み重なっていくと「間違い」が起きるかもしれない。事実を証明するのは難しいしその事実っぽさを計算することも難しい。

警察官個人々々には良心があって、その危険性を承知してはいても日々発生する事件と、それに比しての人員の少なさ(そしてそれを処理したからといって報酬を得るわけではないこと)、検挙率で評価されることから危険なこともありうるんじゃないだろうか。

疑わしきは罰せず、推定無罪といっても、100%完璧で絶対的な証拠がある場合なんてありえない*1。それでも状況的に、消去法的に容疑者が特定される場合、容疑者も認め、目撃者がいて被害者は厳罰を求めるなかでは事実だろうという推定で罰す方向に動いていく。

それは仕方ないのかもしれないけれど、実際に冤罪が起きてしまっている状況ではどうしたらいいだろうか。少なくとも訓戒を出して意識を高めて再発を防止する、というのはあんまり効果なさそう。

事実を証明するのは思ってたより難しいしその事実っぽさを計算することも難しい。

以上、オチなし。

*1:絶対なんて言葉を絶対に信じない