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読書メモ「入門 東南アジア近現代史」(岩崎育夫)

東南アジアは海外旅行としても身近で、エスニックでおいしい食事も人気があるし東南アジアから日本に移住しているひとも増えているし、肌感覚でも距離が近づいているようにも感じる。 けれど、第2次世界大戦では日本はそれらの国を蹂躙したという歴史的な経緯もあるし一部の技能実習生には過酷な待遇もあって難しい関係でもあるし、もう少し知っておきたいという思いで手に取ってみた。

歴史の本としては現在の国関係にフォーカスしすぎな気もするけれど、それぞれの国について歴史的な背景や文化をわかりやすくまとめていてよかった。

いろいろおもしろいところがあったけれど、特に印象深かった植民地、日本との関係、独立について読書メモを書いています。

植民地

タイ*1を除く東南アジアの国はなんらかの形で欧米の植民地になっているけれど、どれも悲惨な歴史。インドネシアの王位継承争いに介入して領土を広げたオランダなど手口も汚い。

ヨーロッパ諸国が自国の官僚制や統治制度を模して創った植民地国家では、土着国家の支配者は実権を失ったものの、王制が廃止されたのではなく、多くの国で形式的ながらも残されている*2。そしてフランスはインドシナ植民地のラオスカンボジアを統治する下級役人としてベトナム人を利用するなど間接統治がなされ、現代にも尾を引いている。

一八五〇年のインドネシア植民地からの収入は、オランダ本国政府の収入の一九%に過ぎなかったが、一八五一~六〇年には三二%にも上ったのである。この膨大な利益によりオランダ本国の財政収支が改善されただけでなく、産業革命の原資にもなった。

いまのヨーロッパの繁栄にも東南アジアからの収奪がつながっているといえそう。

日本と東南アジア

シンガポール北東部のヨー・チューカン通りを入った静かな住宅街の一角に日本人墓地がある。片隅には二〇世紀初めに、大半が二〇歳前後で亡くなった四〇〇人ほどの若い女性の共同墓碑がある。彼女たちは、「からゆきさん」(唐行きさん。当時の日本は唐=外国とみていたので、外国に行った人の意味) と呼ばれた売春婦の人びと

これは、10年前に書いたグローバル女衒の話にも近い

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そして時代が飛んで太平洋戦争。日本は東南アジアを占領すると*3、軍政を敷いて住民を厳しく管理したなかで3つの行為が現在も記憶され批判されている。第一がシンガポールの華僑虐殺で、犠牲者は5千-5万人と言われている。第二がフィリピンでの戦争捕虜に対する過酷な扱いで数千人の死者を出したバアーン死の行進。第三が、タイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道建設労働者の強制徴用がある。これらは、過去の大きな過ちとして記憶されていく必要がある。

いっぽうで、一次資源を確保するために東南アジアを占領したのはヨーロッパ諸国の植民地化と同一だけれど、表向きは東南アジアを占領したのは独立を支援するためであるとして、東南アジアのいくつかの国を「独立」させたこと*4はある。ただ、ヴィシー政権のような傀儡ではあるので称賛されることではない。また1943年にジャワ島で、日本が主導してジャワ防衛義勇軍をつくるなど軍を創設したこともある。日本の敗戦後、インドネシアではインドネシア軍の中核として対オランダ独立戦争を戦ったし、インドネシアスハルトミャンマーのクーデタで実権を握ったネ・ウィンなど日本が育成した軍人のなかにはは後に国家指導者になった者もいるなど歴史の難しさがある。 日本だと、第2次世界大戦の敗戦によって戦後と戦前が分かれ歴史が分断されているように感じてしまいがちだけれど、当然、歴史は途切れなく続いている。

本書ではこうも書かれている。

日本の占領統治が東南アジアの独立に何の意味も持たなかったのではない。日本軍が東南アジアからヨーロッパ勢力を放逐したこと、そして、その後の日本の占領統治がヨーロッパ人以上に過酷だったので、東南アジアの人びとのあいだに外国支配からの脱却、すなわち、独立を渇望させた

独立

第2次世界大戦後の独立もさまざまな経過をたどっている。子どものころに読んでいた本にあったクイズ、世界で一番新しい国は?の答えは2002年の東ティモールだったけれど、多くの国で様々な経過をたどっている。

人種や宗教が混ざったまま、もとの土着国家の領域ではなく植民地国家の領域をベースに独立してしまったことで多くの問題が生まれているようにも思える。いくつか列挙してみる。

マレーシアではマレー人、華人、インド人の民族政党ができて連合党を結成したけれど、そこからマレー人優位をとなえる中央政府シンガポール州政府で対立してシンガポールは追放されるように分離独立した。

タイでも1958年にクーデタで権力を握ったサリット首相は、民族・仏教・国王を基盤にした国民統合を進めたものの、南部のムスリムはこの国民統合理念の枠外の存在だったり。

インドネシアではオランダの独立抑圧行動が続いていたのを国連安全保障理事会がオランダを非難する決議を採択したことで独立。ただ、このときはスマトラ島の大半とジャワ島の約半分を領土にするインドネシア共和国と、それ以外の、オランダ傀儡の15の国からなるインドネシア連邦共和国にするものになっていたなど宗主国の影響は大きい。1946年からフランスと独立戦争をした北ベトナムのその後の経過は知られているように悲惨だった。

カンボジアは、独立後40年ほどのあいだに五回も政治体制と国名が変わったが、混乱した最大の原因は、小国カンボジアベトナム戦争に巻き込まれたことにあったとか。

そしてこれらのプロセスはまだ終わっていない。インドネシア東端、2002年にパプア州に改名されたパプアは、現在も熾烈な分離独立運動が続いているというのは知らなかった。

現在

独立後の開発独裁の経過もおもしろいし、ミャンマーでの軍政復活など民主化も危うい状況ではあるけれど、ひとつ気になったのは都市住民と農村住民の対立。

2006年の1人当たり国民所得は、バンコク首都圏を100とすると、中部タイは40、北部タイは17、東北タイは12、南部タイは28でしかないそうでタイ経済の最大の不安定要因でもあるとのこと。これから人口ボーナス期も終わるなか、どうなっていくでしょうか。

おまけ

ひとつシンガポールでいってみたいところ

マレーシアに移民した中国人で、現地のマレー文化を受け入れた中国人はプラナカン、男性はババ、女性はニョニャと呼ばれる。(中略)日本の家庭料理に似ているニョニャ料理は、筆者の東南アジア料理の好物の一つである。ニョニャ料理の店はシンガポールにもあるが、裕福なプラナカン一族の邸宅だった二階建ての家をレストランに改築したマラッカの店は歴史的雰囲気が漂い、ビールを飲みながら食べた料理は抜群だった

どこだろう、いまもあるのかなあ

その他

過去の記事を見返すと、いくつか東南アジアトピックもあった。

ラオスはルアンパパーンにはまたいってみたい。 dai.hateblo.jp

ベトナムでは「ミス・サイゴン」も。ベトナム戦争はもっと調べないといけない気がしている。 dai.hateblo.jp

カンボジアを舞台にした傑作「ゲームの王国」はおもしろかった。小川哲先生、ご結婚おめでとうございます。 dai.hateblo.jp

*1:タイが植民地化を免れたのは、第一にタイの近代化改革で、明治維新と同じ頃の一八六八年に即位したチュラロンコン国王が植民地化を防ぐために、官僚制の導入や軍隊の創設など中央集権型の近代的国創りに着手したことや、第二に地理的な理由、第三がヨーロッパ諸国がタイのコメ貿易の参入権を獲得したことで植民地にするうまみがへったからだという。

*2:例えば、イギリスは、マレーシアでスルタンが統治する九つの州を存続させたし(今も残っている)、フランスも、ベトナムのグエン国、ラオスのラーンサーン国など

*3:タイは日本の同盟国となり、アメリカとイギリスに宣戦布告をした

*4:1942年8月に反英運動家のバ・モウを国家元首に据えてミャンマー、1943年10月に親日のホセ・ラウレルを大統領に擁立してフィリピン、1945年3月にベトナムのバオダイ皇帝、カンボジアシハヌーク国王、ラオスの国王に独立を宣言させた