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伊藤俊一「荘園」で学ぶ農地の成り立ち

このところ、なんとなく農地というものに興味があってその流れで手に取った。 荘園なんて歴史の教科書で地味にでてきた用語、と思うかもしれないけれど、じつは新書大賞2022で3位と注目されているし、日本の歴史を考えるうえでも土地は重要。

土地と歴史の関係については、(晩節を汚しつつある)猪瀬直樹さんの傑作「土地の神話」の解説にて建築家の藤森照信氏がコンパクトに洞察しているので長いけれど引用する*1

日本の歴史の教科書を開いてみれば分かるが、歴史の転変の肝所ではきまって土地が顔を出す。やや固い知識になるけれど、たとえば、伊根を育てる土地としての水田の確立から今日に直結する日本の歴史は芽を吹き、班田収授の法によって古代国家の基礎が定まり、それをなし崩しにした荘園によって中世の貴族や寺院といった指導層は支えられ、その荘園を荒らし回り切り取った土地に一所懸命の者どもによって武士の時代が始まり、そして武士の時代は秀吉の検地をへて、家康の封土を基盤とする封建制に行きついて安定する。原始、古代、中世、近世と、歴史の基盤は土地なのだ。この勢いは、近代に入っても変わらない。明治の新政権は、風封土を解体し地租改正によって近代土地制度を確立し、さらに、先の敗戦のおりの農地解放によって今日の日本の基礎がつくられた。 *2

※ これに続く歴史家と歴史学者の違いについての藤森氏のお考えも、歴史学者による本書との絡みで興味深いけれど、これは省略。

本書「荘園」では、研究の積み重ねによる詳細な荘園の制度や概念が整理されている。 2点、驚いたことについて書いてからいくつかおもしろかったところを紹介する。 まず、荘園そのものについてではないけれど、昔の(11世紀ごろの)農家は移動が自由だったというのは全然知らなくて驚いた。いろいろ移動したり雇われて耕作しており、戦後の先祖代々の土地を守っていたというのはもうちょっと近代になってからの様子。家族観とか郷土観はどうだったんだろう(その自由がない下人もいるはいたとのことではある)。

この時代(引用者注 11世紀ごろ)の農民は、後世のように先祖代々の屋敷と田畑を守って定住しているのではなく、時々の国司荘園領主の求めに応じて、転々と住まいと働き場所を変えたのだ。 *3

もうひとつが源頼朝が軍功の恩賞として、敵方の荘園の下司職(徴収権をもつ荘官)を分け与えたことが当時は脱法行為でかつ画期的なことだったということ(中学校の授業ではそういうものかくらいに思っていた)。これは覇権をとる組織は、画期的な人事制度を発明しているというのと通じるように思える*4。例えばナポレオンによる義勇軍や、Googleのコンピュータサイエンティストの好待遇での採用を連想した。

ほかいくつか気になったところを引用してみる。

軍閥について

国司の任を終えた皇族・貴族が地方に土着して国司の仕事を妨げることが問題になった。この土着した皇族・貴族のことを 前司 浪人 といい、彼らの末裔からのちの大武士団が生まれてくることになる。 *5

群盗を鎮圧するため、東国の国司たちは 蝦夷 から乗馬術を学んで軍団を再建・強化するとともに、群盗化した富豪層の一部を懐柔して軍団のなかに取り込んだ。そのうち国司の四年の任期を終えても都に帰らず、大勢の従者を抱えて関東の未開の荒野を 田畠 に開発し、そこに土着する貴族も現われた。その代表が九世紀末に上総介(上総国の実質的な長官)となり、任期後に土着した平高望だ。 *6

中世にどうやって各地を支配していたのかと思ったけれど、実際は軍閥のようなものも生まれていた様子。とはいえ、ほかの多くの地域では遠地でもつつがなく租税が納められていた時期が長かったようで現地の農民目線でその強制力がなんだったのかは少し気になった。荘官の武力なのか、お上のルールに従う文化なのか道徳的ななにかなのか。

制度について

中世の荘園では農業の集約化も進んだ。山野から刈り取った草木や、それを焼いた灰を肥料として田畠に敷き込む刈敷が使われた。これは古くから行われてきた方法ではあるが、領域型荘園の成立によって荘民による山野の占有権が明確になり、草木の利用も促進されたと考えられる。百姓が牛馬を飼うことが一般化すると、その 糞尿 や敷わらを堆積して腐らせた 厩肥 も用いられるようになり、二毛作により低下した地力の回復に役立った。 *7

中世荘園は耕地と山野を含めた領域を囲い込み、領主が自らの責任で荘園の領域を自由に開発・経営し、その結果を引き受けた結果、山野の資源の活用も含めた農業生産の集約化が進んだ。 *8

集約や管理によってだけでなく、権利が明確になったことで農法の発展もあったというのはおもしろい。

鎌倉時代後期からは水田の裏作として麦を栽培する水田二毛作が行われるようになった。裏作の麦に年貢をかけるのを禁じた鎌倉幕府の政策もあって二毛作は普及し、一五世紀には稲・蕎麦・麦の三毛作も行われていた。 *9

これは、飢饉対策という意味もあるけれど利益になる方向に発展していくのも制度と技術の共進化のひとつといっていいんじゃないかな。

国司が免田を認可した理由は大きく分けて三つあり、第一には開発者へのインセンティブとして新開田( 治田 という) にかかる税の減免、第二には国司が貴族や寺社などに納める義務がある物品の割当て、第三には貴族や寺社の仕事にたずさわる 寄人 の田地の税の減免だ。 *10

優遇制度によって地域の開発が振興するというのは現代の産業振興にも通じる。そして、これで力をつけた国司の一部が軍閥化することも・・・

摂関政治の時代の地方は不安定な競争社会で、国司が税の減免を 餌 に荒廃地の開発を競わせた結果、田堵や私領主が耕地をわざと荒廃させ、その再開発で税の減免を求めるような本末転倒な事例も出ていた。 *11

そして制度がハックされるのも現代と同じ・・・。制度設計は難しい。 また、環境の変化によっても荘園経営は影響を受けている。たとえば、中国から銅銭が大量に導入された結果、年貢も代銭納化して、これによって、荘官・金融業・手工業を兼ねて富を生み出す、これまでになかったビジネスモデルが生まれたというのも興味深い。

組織外の人員を代官に登用することは、荘園領主にとって荘園経営の「外注」だった。外注化は担い手の集約でもあり、五山派禅寺の東班衆のような荘園経営専門のコンサルタント集団が生まれ、金融業と荘園経営との相乗効果で土倉や酒屋は巨額の利益を上げた。   *12

このように、状況の変化がビジネスチャンスにもつながっている。

荘園は経営や支配の枠組みとしての実態を失い、荘園の名称もいつしか地域から消え、かわりに村や、村の連合である郷が地域の枠組みになっていった。これが近世に引き継がれ、村が年貢の納入を請け負う村請制が形成されることになった *13

これも自立のひとつではあるのかも。

その他

荘園の研究史自体も興味深い。

一九七〇年代までの荘園研究に問題がなかったわけではない。階級闘争による社会の進歩を説いたマルクス主義歴史学は、在地領主である武家を革命勢力と位置づけ、貴族や寺社が持つ荘園を侵略して封建制社会を形成する道筋を描いた。またマルクスの歴史の発展段階によると中世は農奴制社会のはずなので、日本の中世に土地に緊縛された西欧的な農奴を探し求めた。 *14

冒頭にあったこの説では、高い知性をもって訓練を受けた人文学者であってもその時代の固定観念に引きずられるということがわかる。

畠作も平安時代と同じく、穀物では麦をはじめ蕎麦・大豆・小豆・大角豆・粟・黍・稗 などが栽培された。蔬菜類では芋・胡麻・牛蒡・胡瓜・韮・葱・えんどう、手工業産品の原材料として、 燈 明油の原料の荏胡麻、畳や蓆を作る藺草や染料にする紅花も栽培された。 *15

日本古来の野菜が並んでいて嬉しい。農民はどういう食生活もすけてみえる(実際はどうだったんだろうか)。

また、本書では文献だけでなく古気候学の知見も活かされているというのも興味深い。学際的ですごい。

九世紀前半までは乾燥気味で安定していたが、九世紀後半には湿潤に転じて不安定化し、洪水と 旱魃 が交互に起こった。一〇世紀には一転して乾燥化が進み、一〇世紀半ばの乾燥した気候は一〇〇〇年単位で見ても異例なもので、農村は厳しい試練にみまわれた

こうした気候による苦難は大きな爪痕を残しているけれど、現代に発生するとどうなるだろうか。現在の近代的な農業と食品流通は、せいぜい数十年の安定した気候に最適化されすぎているのように思えるので、たとえば大噴火などの気候変動にどれくらい影響を受けるかはちょっとおそろしい。

そんなこんなで、荘園というものから、農業社会の成り立ち(の一部)や制度設計について楽しく学べる良書でした。みんな読みましょう。

*1:この無理やりなまとめ方について、正確ではないよ、という研究者の方の声も聞こえてきそうだけれど、明文化されているかどうかに関わらず土地についての制度の変遷が歴史の重要な要素というのは同意していただけるのでは、と思う。

*2:文庫版p437

*3:p54

*4:もちろん十分条件ではないし、必要条件でもないけれど

*5:p35

*6:p65

*7:p144

*8:p267

*9:p144

*10:p55

*11:p74

*12:p234

*13:p260

*14:p5

*15:p144