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「歴史学のトリセツ(小田中直樹)」多様な歴史の方法論

ちくまプリマ―新書の「歴史学のトリセツ」を読みました。学問として確立しているようにみえる歴史学のさまざまな潮流をわかりやすく説明していて、アカデミアのダイナミズムのようなものを感じられるのがよかった。

まず、授業で学ぶような歴史はなぜつまらないかというと、これは歴史学の主流をつくったランケに連なるランケ学派の特徴によるという。ランケによれば歴史学とは「それは実際いかなるものだったか」を明らかにする学問領域であり、その根拠を公文書をもとにする実証主義だったこと。

これは客観性を確保するために意味はあるけれど、これによって記憶が排除される問題もあった。かなり極端な例だけれど、ポーランドでのソ連軍による虐殺、カチンの森事件第二次世界大戦後のポーランドソ連の衛星国だったことから、ドイツの所業であると公式見解になったのもあるし、政権交代時には前の時代を悪く記述する歴史書が編纂されたという問題も想起する。

また、知識を欠如した非専門家に向けて、専門家が知識を与えるという、科学技術社会論(STS)でいう欠如モデルにもつながっているのと、国家を単位に歴史を記述するナショナルヒストリーに傾斜しているという問題もあるという。

そんな歴史学に対して、アナール学派、労働史学、世界システム論、比較経済史学やパブリックヒストリーなどさまざまな方法論が生み出されている。それぞれ、着眼点と切り口が違うことで過去を別の角度から解釈できて興味深い。ただ、着眼点の違いによってどんな問題を解決できるかは気になった。

著者の東北大学の経済学研究科教授、小田中直樹先生は歴史学のおもしろくなさに問題意識をもっていて、どうおもしろくするかを気にされているけれど、歴史学のおもしろさは最近の日本スゲーとか「太平洋戦争で植民地を解放した」みたいな方向にもなりかねなくて危うい気もする。

いっぽうで自分が歴史を学ぶモチベーションを考えてみると、単なる好奇心が大きいようにも思うけれど、心のどこかではなんらか役に立つものを求めているのかも。これは「愚者は経験に学ぶ、賢者は歴史に学ぶ」というビスマルクの発言の誤訳の影響もあるかもしれないし、暗黒の未来を生きていくのに過去のパターンを参考にしたいという臆病さもあるかも。

過去におきた真実には到達できず、近づくことしかできないし、近づいたとしても(人間が読める形には)記述しきれないことから歴史学にはさまざまな方法論があるように思える。情報学なんかだと解決したい問題ありきだし、自然科学だと真実にアプローチする手段は多数検討されても優劣が比較しやすかったりで歴史学ほどは分派しないようにも思う(仮説はたくさんああるにせよ)。歴史学より派閥がわかれているのはマクロな経済学くらい?これは実経済に対してきわめて小さな規模でしか実験ができないにもかかわらず、為政者から知見を求められるからなんだろうか。とか考えました。