1985年出版で1985年にネビュラ賞、1986年にヒューゴー賞とSFのビッグタイトルを2つとっている傑作。ちょっと前に映画化されたときに気になっていて、積んでいたのをようやく読んだ。
コミュニケーションのとれない異星人バガーに侵略されつつあるなか、指揮官候補として見出された少年少女たちを描いている。そのなかでもっとも期待された主人公エンダーのキャラクターと舞台がユニークでほんとうにおもしろい作品でした。後世に影響をうけた作品もいくつかあって結末を予想できるひともいるかもしれないけれど、それでも傑作。
とくに6歳の少年の葛藤と知性の描き方や指揮官になる前後でのふるまいの違いがよい。 大人と少年の関係、いちばんしたっぱの新規訓練生(ラーンチィ / launchies)だったころと、指揮官になったあとのふるまいの変化は緊張感があって、またメディアと世論についてや教官同士のウィットのある会話もおもしろい。
今読むと、児童心理への懸念はたくさんあるし、親になった今読むととても許されないと思うけれど、非常時の選択として巧妙に描かれていてするするっと読めてしまう。 地球外からの侵略者に立ち向かうという点では、大傑作SF三体とも通じる。三体もこの作品の影響を受けているんだろうか。人類の戦略としての面壁者(ウォール・フェイサー)とも似ているのかも。
作中、メディアを利用して言論で世論操作をこころみるところもあるんだけれどほんとうにインターネット的だし、ポスト・トゥルース的な要素もある。1985年にここまで書けたのかとも驚いだ・・・(冷戦のさなかでプロパガンダ合戦はあったにせよ)
あとITエンジニア向けの紹介として構成管理ツールの Ansible の由来はこの作品のとあるギミックということも触れておきます。
以下ネタバレ感想
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タイトルや映画のPVから、読む前に天才的な少年がゲームのような感覚で戦争を遂行するもの、とは思っていたけれど二枚も三枚も上手だった。どこからゲームか読んでいてわからなかった。
バガーたちとのきたるべき最終決戦のまえの訓練のシミュレーションという形で、これまでの訓練・ゲームの延長としてプレッシャーをかけていたのは巧妙だと思う。これを敵と同じように、位置が離れた距離でも瞬時に通信できるアンシブルというツールを使って、実際の(おそらく有人の)戦闘艦を操作させるというのはすごい。
こうしていたのは人類を背負うということや戦闘艦の人員の命を扱うというプレッシャーから回避させるだけではなく、相手に情けをかけないためというのもおもしろい。勝つためには相手を理解しないといけないけれど、そうすることで相手に共感もしてしまう。
このために現在の軍人では不適当と判断して、実際の戦闘ということを悟られずに戦略を発揮できる人間を発掘するために6歳の子どもに着目していくというのもすさまじい。
実際に、人類に危機が迫ったときに、そういう人権無視での才能発掘はできるだろうか?あるいは、ある種のパーソナリティ障害をもっている人間が才能を発揮して人類を救うストーリーもありえるだろうか、ともぼんやり思いました。
終戦後の、エンダーのふるまいと遍歴も胸に来るものがある。神話的な作品だった。
鳥肌がたつシーンが2か所。エンダーが編隊リーダーたちとはじめて会話するときの「サラーム」、最終決戦時の「思い出して、敵のゲートは下だよ」というビーンのセリフ。この、大きなピンチ・転機でかつての旧友とのやりとりを出すのがうますぎる。
いくつか引用
「コンピュータは、われわれ以上に彼をよくわかっています」 「だが、コンピュータは慈悲の心があることで有名なわけでもないな」 「慈悲深くありたいなら、あなたは修道院へ行かれるべきでしたね」
教官同士のウィットと皮肉にとんだ会話がよい・・・。
敵よりほかに師はいないのだよ。敵以外のだれも、敵がなにをしようとしているかを教えてくれない。敵以外のだれも、どうやって破壊し征服すればいいかを教えてくれない。敵だけが、自分のどこに弱みがあるかを教えてくれる。敵だけが、自分のどこに強みがあるかを教えてくれる。
マオリ族出身の英雄、メイザー・ラッカムもいい。ポリネシア人が重要な役割をもつ創作はじめて触れたかも。
たいてい歴史家たちは、こうした決定的瞬間がいつなのか、原因と結果について屁理屈をこねる。世界が流動的状態にあるとき、適切な場所における適切な声が世界を動かすことができるんだ。たとえばトマス・ペインとベン・フランクリンがそうだ。
令和の今でもそうだろうか。言論の信頼度がだださがりしているからこんなことにはならないかなあ。
ふたり合わせても八本ばかりしか恥毛のない二人のガキにしては、わるくない
ナイス比喩