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「ファシズムの教室(田野大輔)」読書メモ。人々はファシズムの暴走を防げるのか

30年ナチスを研究してきたという田野大輔先生の「ファシズムの教室 ーなぜ集団は暴走するのか」(2020)を読みました。

ファシズム全体主義に対しては、自分も、おそらく多くの人も抑圧的で強権的なイメージを持っているけれど、実態は大衆からの支持と大衆による運動が下地にあったと指摘されています。その一部を実際に大学の授業でやって体験してみましょう、という挑戦的な取り組みの記録でもある。

具体的には「ハイル・タノ」と叫ばせて隊列を組ませて学校を一周させたり、「敵」を排除させていく。このやり方には予想通り批判もあったようだけれど、おもしろい取り組み。

アーレントによる「悪の凡庸さ」とか本書でもたびたび言及されるミルグラム実験などを知っていると、ドイツ人が邪悪だからユダヤ人を絶滅させるようにしたのではなく、権威の構造によって善良な人々が残酷な行動をしてしまう、ということはぼんやりわかっていたつもりだけれどそれを体験することで身をもって恐ろしさを知るというのは興味深い。

集団行動がもたらす独特の快楽、参加者がそこに見出す「魅力」に求められる。大勢の人びとが強力な指導者に従って行動するとき、彼らは否応なく集団的熱狂の渦に飲み込まれ、敵や異端者への攻撃に駆り立てられる。ここで重要なのは、その熱狂が思想やイデオロギーにかかわりなく、集団的動物としての人間の本能に直接訴える力をもっていることだ。全員で一緒の動作や発声をくり返すだけで、人間の感情はおのずと高揚し、集団への帰属感や連帯感、外部への敵意が強まる。この単純だが普遍的な感情の動員のメカニズム、それを通じた共同体統合の仕組みを、本書ではファシズムと呼びたい。

これは、どこかで新左翼運動に批判的な立場のひとが著書かなにかで「肩を組んで街中で声を上げるとだれだって高揚する」と書いていたのを連想した(だれだったか失念)。小学校の運動会でも同じだし、国家とかでも同じかも(特にフランス国家を想起する)。また、これはファシズムをすすめる国家側だけではなく、少数派になりがちな反体制派の運動でも、特にラディカルなものではメカニズムが働いて結束が強化されて、その結果として先鋭化してしまうように思う。

ファシズム的と呼びうる様々な運動にはほぼ共通して、複雑化した現代社会のなかで生きる人びとの精神的な飢餓感に訴えるという本質的な特徴がある。それゆえ、そうした運動が人びとを動員しようとするやり方も、きわめて似通ったものとなる。すなわち、強力な指導者のもと集団行動を展開して人びとの抑圧された欲求を解放し、これを外部の敵への攻撃に誘導するという手法である。

第一次世界大戦後、ワイマール体制下で政党が分裂して議会が紛糾してものごとが進まなかったドイツでは強力な政治が期待されていたというのもあるかもしれない。

教育は、社会に根ざした道徳を次世代に継承しつつも、その道徳をより適切なものへと刷新していくことを一つの使命としている。体験を通じて集団行動の危険性に目を開かせる取り組みは、道徳の継承のみならず刷新もはかることで、従来の教育の限界を乗り越えようとする

難しいのは、教育が重要ではあるけれど、教育する主体も権威であってそれに従わせる側面があるということ、そして権力を握ったファシズムは教育にも手を出すことかなあ。これは、ミルグラムの「服従の心理」の2012年版で訳者の山形浩生も触れていた気がする。

ポピュリストたちは「噓つきメディア」や「人民の裏切り者」を執拗に攻撃するが、それは自分たちの「声」が不当に抑圧されていると感じる人びとの不満に訴え、既成体制に対する激しい抗議の波を引き起こすことをねらうからである。彼らは自分たちを縛るあらゆる制約を打破し、それまで表明を禁じられてきた本音を堂々と主張することを求める。それゆえ、リベラルな価値観を押しつける「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」には激しい敵意が向けられることになる。ポピュリストたちにとって、メディアがふりかざす正義や良識など、自分たちの感情を抑圧するだけの空虚なご高説にすぎない。「差別なんて知ったことか、好きなことを言わせろ」という感情、一種の「タブー破り」の欲求が、彼らを過激な言動に向かわせる動機であり、魅力になっているのである。

こうした感情のもとになる被害感のようなものを社会でどう扱っていくといいんだろうか・・・。経済不振がまず大きなキーなようには思うけれどそれだけではなさそう。

こうした運動が多数派の共感を獲得し、世論全体がヘイトで染まるような事態を防ぐには、「ファシズムはいけない」などと理性に訴えるだけでは不充分で、場合によっては逆効果にもなりうる。むしろ私たちは、運動の参加者たちが味わう解放感、自らの感情を何の制約も受けずに表現できる「自由」の魅力に注目しつつ、彼らの感情に積極的に介入することで、過激化の危険性を摘んでいく必要がある。

これ、教育学当たりの裏付けがなにかあるかは気になる。 思考を放棄して服従し、多数派でいて抑圧する側にまわることは「楽しい」。その楽しさを忘れられないと逆効果になる可能性もあるように思える。虐待の連鎖というか、ブラック企業出身者が転職先でもブラック文化を広めるとか・・・。

ファシズムの体験学習」から得られる最も大きな教訓は、ファシズムが上からの強制性と下からの自発性の結びつきによって生じる「責任からの解放」の産物だということである。指導者の指示に従ってさえいれば、自分の行動に責任を負わずに済む。その解放感に流されて、思慮なく過激な行動に走ってしまう。表向きは上からの命令に従っているが、実際は自分の欲求を満たすことが動機となっているからだ。そうした下からの自発的な行動をすくい上げ、「無責任の連鎖」として社会全体に拡大していく運動が、ファシズムにほかならない。

これは一部の過激な新宗教の勧誘とか運動も連想してしまう。 拡大を防ぐためにメディアや既存の政治家は重要だけれど、一度囚われた人間を戻すのは難しそう・・・

そんなことを思いました。 ちょうど最近は岩波ブックレットで「検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?」という本も出しているけれど、この問いにはあまり関心がないので読まなさそう(必要なひとはいるだろうので意義あるとは思います!)

関連) dai.hateblo.jp