大津宿日記

@daaaaaai の日記です

「異常【アノマリー】」感想。いい読書体験だった

SF小説「異常【アノマリー】」を面白く読めたので感想文を書きます。 (末尾にスペースをあけてネタバレ感想を書いています。そこまではネタバレなし)

まず、その異様な表紙の写真に目が行く。荒野にいる2人の赤い服を着た黒人女性のようだけれどよくみると顔が、ない。AIがつくった失敗画像のようにもみえるけれど、この不穏で不気味な表紙から興味を掻き立てられて手に取った。

読んでみると、殺し屋や歌手、弁護士、子どもなど住んでいる地域も職業もばらばらな人たちのそれぞれの生活の様子が描かれている。ある種の群像劇。どこで交わるのかと思うと、数か月前に同じ飛行機にのっていたことが少しずつ示される・・・。

そこまでの描き方もうまいし、この事象について明らかになる場面では驚いてさらにページをめくる手がすすんでしまう。読書体験としてたいへんよかった。もし、ある事象が起きたら、というまさにスペキュレイティブ・フィクション/思弁小説としてのSFの傑作だと思う。 その事象への人類の対応を考えるために、科学者を結集させたり、各世界宗教の代表者を集めて議論させるところもおもしろい。

ただ、読書体験としてはよかったけれど、読み終わってから振り返るとちょっとした物足りなさも感じる。まず、創作にしては珍しいことにFBIが組織として善良で有能すぎることと、インパクトのある表紙と内容があまり関係なかったこと。

FBIが有能だったということでこの事象が起きる中である程度穏健なシナリオだったともいえるし、それによってフォーカスされるものも魅力的ではあるのだけれど、自分の下心としてはもっと混沌がみてみたかった。たとえば事なかれ主義が蔓延した日本で発生していたらどうなるか・・・と考えてみるとちょっとおもしろいかも。

著者のエルヴェ・ル・テリエはフランス人で数学者でもあって実験小説もいろいろ書いているらしい。多才ですごい。

ちょっと脱線します。本作のタイトルから連想したものに木城ゆきとの傑作SFマンガ「銃夢LastOrder」に登場した「アノーマリー/例外者」という怪物があります。これは自己増殖ナノマシンの暴走でナノマシンの海と化してしまった水星で発生した、人間をカリカチュアしたような造形をしている疑似生物で、行動原理は不明だったけれど、ある人物はそれを人間を模倣し暴力によってコミュニケーションをとろうとしているのではないか、と推測していました。そのときのセリフを引用します。

彼ら・・・とりあえず「水銀族(メルクリオン)」と呼ぶが、彼らは人類とコミュニケーションをとろうとしているのかもしれない。
非言語的アプローチが可能なZOTT*1という場に「アノーマリー」という大使を送り込み我々の姿形・・・そして本能的な行動を模倣させることによって・・・!!

だとするならば
科学者よりも・・・
政治家よりも・・・
軍人よりも・・・
宗教家よりも・・・

空手家!!彼らほどこの任務に適した人種はいまい!!

こうして超電磁空手の使い手、刀耳とアノーマリーが対決します。空手の「無用の術」、「愚」を体現していてたいへんおもしろかったのでSFマンガに抵抗のない方は機会があれば手に取ってみてください。

以上、アノマリーと名前が一致しているだけなんですが、印象深かったので共有しました。

さて、以下に本作のネタバレ感想












はい。ここからネタバレです。 本作で描かれる異常な状況とは、ある日、突然の嵐のなかから3か月前に着陸したのとまったく同じ飛行機が、パイロットも乗客もその3か月前の状態のままで現れる、というもの。これを管制が検知して、こうした異常事態向けに作成された手順(そんなの起こるわけがないだろう、ということで制作したSF好き科学者たちによってパロディだらけでつくられていた)に基づいて対応される。そして、複製されたクローンたちを社会がどう受け止めるか、また社会復帰できるように調整されていくなかで起きる混乱と社会の衝撃を、さまざまな人々の群像劇とすることで描いていくというもの。

人の手にも異星人の手にもよらない自然現象的なこの異常事態をタネに、人々の葛藤を描くというのが主眼な気がする。 だれかの超能力や発明、異星人をタネにする作品とは違って、人が主体だし、中盤になるまでこの事象が読者にも明かされないことでの不穏さを感じるはらはらするような読書体験だった。

ただ、この事象を検知してすぐに飛行機を隔離して個別にオリジナルを追跡して身分を保証しようとするアメリカとFBIが有能・善良すぎて泣ける。もし現実に起きたら、着陸時に飛行機のぐだぐだはありつつもなし崩し的に空港外に出ることになって混乱してしまいそう。その混乱を読みたかったようにも思う。

もしそうなっていたらどういう展開になっていただろう。 飛行機の中にいるうちに3か月タイムスリップしたと錯覚するだろうし、そうすると最初はオリジナルが定刻に到着していて3か月も生活しているなどとは思わないだろう。けれど、スマートフォンで見るメールやSNSなどでタイムスリップしていないオリジナルがいることにも気づくか、飛行機でトラブルにあったと家族や職場に電話して狂言と疑われて混乱のもととなるかもしれない。単身者だと家で鉢合わせになることで発覚するかもしれない(SIMがクローンされることで電話がどうなるかはわからないけど)。そうしたときに、個別の案件となってしまうと行政も腰が重そうでアイデンティティクライシスが起きそうだ。

そのままだと暗い話になりそうだけれど、世の中に、高度な専門家が2人いることになることではじめて解決できる問題があったり、家庭のトラブルみたいなものを2人に分裂することで穏便にできる場面を描けると、おもしろいかも。うーん・・・。

いくつか気になった文章を引用しておきます。

彼女がアンドレに伝えたいのは、彼女の柔らかい肌、すらりと細い脚、血の気のない唇、彼らが彼女の美と呼ぶもの、さらには彼女と付き合うことで味わえるはずの愉悦に心を躍らせて彼女を欲しがり、彼女のなかにそうした要素しか見ようとしない例の男たちすべてに、彼女がうんざりしているということだ。ハンターとして近づいてくる男たちに、狩りの獲物をこれみよがしに壁に掲げるように彼女を飾りものにすることを夢見ている男たちに、うんざりしきっているということだ。

魅力的で男をひきつけてしまうバツイチ子持ちのリュシーと、彼女への恋に落ちてしまう高名な建築家アンドレの関係性は危うさするものがある。アンドレの不安と、どうしようもない状況。サガンの「悲しみよこんにちは」を連想した。

「トト、ここはなんだか……」  声は待つ、じっと待つ。エイドリアンはうつろな声で言う。 「……もうカンザスじゃないみたい」

オズの魔法使いのセリフが合言葉になっている。

ベン・スライニーの仕事初めの日だ。 アメリカ連邦航空局 本土管制本部長に就いたばかりの彼は、歓迎会のコーヒーとドーナツを腹に収めた二時間後、四千二百機の飛行機を地上にとどめ置くという前代未聞の決断をひとりで下すことになる。人生にはそんな日もあるのだ。

これが実話だったということに驚いた。911のときの管制本部長。

「招集してほしい科学者のリストを三十分後にお渡しします」とティナ・ワン。「哲学者も二、三人必要です」 「えっ? それはなぜだ?」シルヴェリアがたずねる。 「なぜって、なぜ科学者だけがいつも夜なべ仕事をしなきゃならないんです?」

昨今の社会学の一部が学問の体をなしていないとするSNSでの批判を思い起こしてしまった。でもこういう倫理の問題でサイエンスコミュニケーションするためにも必要だよな~、と思いました。日本だとこういう枠のひと、誰なんでしょうね。大学で哲学研究している人とか、評論家ではないような気もする。

「〝エルピス〟──希望ですよ。これこそ悪のなかでももっとも始末の悪いものです。希望がわたしたちに行動を起こすことを禁じ、希望が人間の不幸を長引かせるのです。だってわたしたちは反証がそろっているにもかかわらず、〝なんとかなるさ〟と考えてしまうのですからね。〝あらざるべきこと、起こり得ず〟の論法ですよ。ある見解を採用する際にわたしたちが真に自問すべきは、〝この見解に立つのは単に自分にとって都合がいいからではないか、これを採用すれば自分にどんなメリットがあるのか?〟という問いです」

これはことなかれ主義の本質だよな~。そしてこの道徳感情によって思い込みが発生して冤罪もうまれる。

真実とは、それが錯覚であることを忘れられた錯覚である

ニーチェの言葉らしい。虚無主義にすぎる・・・。

*1:太陽系で大国の権力が確立したなかでのガス抜きのような興行

読書メモ「入門 東南アジア近現代史」(岩崎育夫)

東南アジアは海外旅行としても身近で、エスニックでおいしい食事も人気があるし東南アジアから日本に移住しているひとも増えているし、肌感覚でも距離が近づいているようにも感じる。 けれど、第2次世界大戦では日本はそれらの国を蹂躙したという歴史的な経緯もあるし一部の技能実習生には過酷な待遇もあって難しい関係でもあるし、もう少し知っておきたいという思いで手に取ってみた。

歴史の本としては現在の国関係にフォーカスしすぎな気もするけれど、それぞれの国について歴史的な背景や文化をわかりやすくまとめていてよかった。

いろいろおもしろいところがあったけれど、特に印象深かった植民地、日本との関係、独立について読書メモを書いています。

植民地

タイ*1を除く東南アジアの国はなんらかの形で欧米の植民地になっているけれど、どれも悲惨な歴史。インドネシアの王位継承争いに介入して領土を広げたオランダなど手口も汚い。

ヨーロッパ諸国が自国の官僚制や統治制度を模して創った植民地国家では、土着国家の支配者は実権を失ったものの、王制が廃止されたのではなく、多くの国で形式的ながらも残されている*2。そしてフランスはインドシナ植民地のラオスカンボジアを統治する下級役人としてベトナム人を利用するなど間接統治がなされ、現代にも尾を引いている。

一八五〇年のインドネシア植民地からの収入は、オランダ本国政府の収入の一九%に過ぎなかったが、一八五一~六〇年には三二%にも上ったのである。この膨大な利益によりオランダ本国の財政収支が改善されただけでなく、産業革命の原資にもなった。

いまのヨーロッパの繁栄にも東南アジアからの収奪がつながっているといえそう。

日本と東南アジア

シンガポール北東部のヨー・チューカン通りを入った静かな住宅街の一角に日本人墓地がある。片隅には二〇世紀初めに、大半が二〇歳前後で亡くなった四〇〇人ほどの若い女性の共同墓碑がある。彼女たちは、「からゆきさん」(唐行きさん。当時の日本は唐=外国とみていたので、外国に行った人の意味) と呼ばれた売春婦の人びと

これは、10年前に書いたグローバル女衒の話にも近い

dai.hateblo.jp

そして時代が飛んで太平洋戦争。日本は東南アジアを占領すると*3、軍政を敷いて住民を厳しく管理したなかで3つの行為が現在も記憶され批判されている。第一がシンガポールの華僑虐殺で、犠牲者は5千-5万人と言われている。第二がフィリピンでの戦争捕虜に対する過酷な扱いで数千人の死者を出したバアーン死の行進。第三が、タイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道建設労働者の強制徴用がある。これらは、過去の大きな過ちとして記憶されていく必要がある。

いっぽうで、一次資源を確保するために東南アジアを占領したのはヨーロッパ諸国の植民地化と同一だけれど、表向きは東南アジアを占領したのは独立を支援するためであるとして、東南アジアのいくつかの国を「独立」させたこと*4はある。ただ、ヴィシー政権のような傀儡ではあるので称賛されることではない。また1943年にジャワ島で、日本が主導してジャワ防衛義勇軍をつくるなど軍を創設したこともある。日本の敗戦後、インドネシアではインドネシア軍の中核として対オランダ独立戦争を戦ったし、インドネシアスハルトミャンマーのクーデタで実権を握ったネ・ウィンなど日本が育成した軍人のなかにはは後に国家指導者になった者もいるなど歴史の難しさがある。 日本だと、第2次世界大戦の敗戦によって戦後と戦前が分かれ歴史が分断されているように感じてしまいがちだけれど、当然、歴史は途切れなく続いている。

本書ではこうも書かれている。

日本の占領統治が東南アジアの独立に何の意味も持たなかったのではない。日本軍が東南アジアからヨーロッパ勢力を放逐したこと、そして、その後の日本の占領統治がヨーロッパ人以上に過酷だったので、東南アジアの人びとのあいだに外国支配からの脱却、すなわち、独立を渇望させた

独立

第2次世界大戦後の独立もさまざまな経過をたどっている。子どものころに読んでいた本にあったクイズ、世界で一番新しい国は?の答えは2002年の東ティモールだったけれど、多くの国で様々な経過をたどっている。

人種や宗教が混ざったまま、もとの土着国家の領域ではなく植民地国家の領域をベースに独立してしまったことで多くの問題が生まれているようにも思える。いくつか列挙してみる。

マレーシアではマレー人、華人、インド人の民族政党ができて連合党を結成したけれど、そこからマレー人優位をとなえる中央政府シンガポール州政府で対立してシンガポールは追放されるように分離独立した。

タイでも1958年にクーデタで権力を握ったサリット首相は、民族・仏教・国王を基盤にした国民統合を進めたものの、南部のムスリムはこの国民統合理念の枠外の存在だったり。

インドネシアではオランダの独立抑圧行動が続いていたのを国連安全保障理事会がオランダを非難する決議を採択したことで独立。ただ、このときはスマトラ島の大半とジャワ島の約半分を領土にするインドネシア共和国と、それ以外の、オランダ傀儡の15の国からなるインドネシア連邦共和国にするものになっていたなど宗主国の影響は大きい。1946年からフランスと独立戦争をした北ベトナムのその後の経過は知られているように悲惨だった。

カンボジアは、独立後40年ほどのあいだに五回も政治体制と国名が変わったが、混乱した最大の原因は、小国カンボジアベトナム戦争に巻き込まれたことにあったとか。

そしてこれらのプロセスはまだ終わっていない。インドネシア東端、2002年にパプア州に改名されたパプアは、現在も熾烈な分離独立運動が続いているというのは知らなかった。

現在

独立後の開発独裁の経過もおもしろいし、ミャンマーでの軍政復活など民主化も危うい状況ではあるけれど、ひとつ気になったのは都市住民と農村住民の対立。

2006年の1人当たり国民所得は、バンコク首都圏を100とすると、中部タイは40、北部タイは17、東北タイは12、南部タイは28でしかないそうでタイ経済の最大の不安定要因でもあるとのこと。これから人口ボーナス期も終わるなか、どうなっていくでしょうか。

おまけ

ひとつシンガポールでいってみたいところ

マレーシアに移民した中国人で、現地のマレー文化を受け入れた中国人はプラナカン、男性はババ、女性はニョニャと呼ばれる。(中略)日本の家庭料理に似ているニョニャ料理は、筆者の東南アジア料理の好物の一つである。ニョニャ料理の店はシンガポールにもあるが、裕福なプラナカン一族の邸宅だった二階建ての家をレストランに改築したマラッカの店は歴史的雰囲気が漂い、ビールを飲みながら食べた料理は抜群だった

どこだろう、いまもあるのかなあ

その他

過去の記事を見返すと、いくつか東南アジアトピックもあった。

ラオスはルアンパパーンにはまたいってみたい。 dai.hateblo.jp

ベトナムでは「ミス・サイゴン」も。ベトナム戦争はもっと調べないといけない気がしている。 dai.hateblo.jp

カンボジアを舞台にした傑作「ゲームの王国」はおもしろかった。小川哲先生、ご結婚おめでとうございます。 dai.hateblo.jp

*1:タイが植民地化を免れたのは、第一にタイの近代化改革で、明治維新と同じ頃の一八六八年に即位したチュラロンコン国王が植民地化を防ぐために、官僚制の導入や軍隊の創設など中央集権型の近代的国創りに着手したことや、第二に地理的な理由、第三がヨーロッパ諸国がタイのコメ貿易の参入権を獲得したことで植民地にするうまみがへったからだという。

*2:例えば、イギリスは、マレーシアでスルタンが統治する九つの州を存続させたし(今も残っている)、フランスも、ベトナムのグエン国、ラオスのラーンサーン国など

*3:タイは日本の同盟国となり、アメリカとイギリスに宣戦布告をした

*4:1942年8月に反英運動家のバ・モウを国家元首に据えてミャンマー、1943年10月に親日のホセ・ラウレルを大統領に擁立してフィリピン、1945年3月にベトナムのバオダイ皇帝、カンボジアシハヌーク国王、ラオスの国王に独立を宣言させた

「ファシズムの教室(田野大輔)」読書メモ。人々はファシズムの暴走を防げるのか

30年ナチスを研究してきたという田野大輔先生の「ファシズムの教室 ーなぜ集団は暴走するのか」(2020)を読みました。

ファシズム全体主義に対しては、自分も、おそらく多くの人も抑圧的で強権的なイメージを持っているけれど、実態は大衆からの支持と大衆による運動が下地にあったと指摘されています。その一部を実際に大学の授業でやって体験してみましょう、という挑戦的な取り組みの記録でもある。

具体的には「ハイル・タノ」と叫ばせて隊列を組ませて学校を一周させたり、「敵」を排除させていく。このやり方には予想通り批判もあったようだけれど、おもしろい取り組み。

アーレントによる「悪の凡庸さ」とか本書でもたびたび言及されるミルグラム実験などを知っていると、ドイツ人が邪悪だからユダヤ人を絶滅させるようにしたのではなく、権威の構造によって善良な人々が残酷な行動をしてしまう、ということはぼんやりわかっていたつもりだけれどそれを体験することで身をもって恐ろしさを知るというのは興味深い。

集団行動がもたらす独特の快楽、参加者がそこに見出す「魅力」に求められる。大勢の人びとが強力な指導者に従って行動するとき、彼らは否応なく集団的熱狂の渦に飲み込まれ、敵や異端者への攻撃に駆り立てられる。ここで重要なのは、その熱狂が思想やイデオロギーにかかわりなく、集団的動物としての人間の本能に直接訴える力をもっていることだ。全員で一緒の動作や発声をくり返すだけで、人間の感情はおのずと高揚し、集団への帰属感や連帯感、外部への敵意が強まる。この単純だが普遍的な感情の動員のメカニズム、それを通じた共同体統合の仕組みを、本書ではファシズムと呼びたい。

これは、どこかで新左翼運動に批判的な立場のひとが著書かなにかで「肩を組んで街中で声を上げるとだれだって高揚する」と書いていたのを連想した(だれだったか失念)。小学校の運動会でも同じだし、国家とかでも同じかも(特にフランス国家を想起する)。また、これはファシズムをすすめる国家側だけではなく、少数派になりがちな反体制派の運動でも、特にラディカルなものではメカニズムが働いて結束が強化されて、その結果として先鋭化してしまうように思う。

ファシズム的と呼びうる様々な運動にはほぼ共通して、複雑化した現代社会のなかで生きる人びとの精神的な飢餓感に訴えるという本質的な特徴がある。それゆえ、そうした運動が人びとを動員しようとするやり方も、きわめて似通ったものとなる。すなわち、強力な指導者のもと集団行動を展開して人びとの抑圧された欲求を解放し、これを外部の敵への攻撃に誘導するという手法である。

第一次世界大戦後、ワイマール体制下で政党が分裂して議会が紛糾してものごとが進まなかったドイツでは強力な政治が期待されていたというのもあるかもしれない。

教育は、社会に根ざした道徳を次世代に継承しつつも、その道徳をより適切なものへと刷新していくことを一つの使命としている。体験を通じて集団行動の危険性に目を開かせる取り組みは、道徳の継承のみならず刷新もはかることで、従来の教育の限界を乗り越えようとする

難しいのは、教育が重要ではあるけれど、教育する主体も権威であってそれに従わせる側面があるということ、そして権力を握ったファシズムは教育にも手を出すことかなあ。これは、ミルグラムの「服従の心理」の2012年版で訳者の山形浩生も触れていた気がする。

ポピュリストたちは「噓つきメディア」や「人民の裏切り者」を執拗に攻撃するが、それは自分たちの「声」が不当に抑圧されていると感じる人びとの不満に訴え、既成体制に対する激しい抗議の波を引き起こすことをねらうからである。彼らは自分たちを縛るあらゆる制約を打破し、それまで表明を禁じられてきた本音を堂々と主張することを求める。それゆえ、リベラルな価値観を押しつける「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」には激しい敵意が向けられることになる。ポピュリストたちにとって、メディアがふりかざす正義や良識など、自分たちの感情を抑圧するだけの空虚なご高説にすぎない。「差別なんて知ったことか、好きなことを言わせろ」という感情、一種の「タブー破り」の欲求が、彼らを過激な言動に向かわせる動機であり、魅力になっているのである。

こうした感情のもとになる被害感のようなものを社会でどう扱っていくといいんだろうか・・・。経済不振がまず大きなキーなようには思うけれどそれだけではなさそう。

こうした運動が多数派の共感を獲得し、世論全体がヘイトで染まるような事態を防ぐには、「ファシズムはいけない」などと理性に訴えるだけでは不充分で、場合によっては逆効果にもなりうる。むしろ私たちは、運動の参加者たちが味わう解放感、自らの感情を何の制約も受けずに表現できる「自由」の魅力に注目しつつ、彼らの感情に積極的に介入することで、過激化の危険性を摘んでいく必要がある。

これ、教育学当たりの裏付けがなにかあるかは気になる。 思考を放棄して服従し、多数派でいて抑圧する側にまわることは「楽しい」。その楽しさを忘れられないと逆効果になる可能性もあるように思える。虐待の連鎖というか、ブラック企業出身者が転職先でもブラック文化を広めるとか・・・。

ファシズムの体験学習」から得られる最も大きな教訓は、ファシズムが上からの強制性と下からの自発性の結びつきによって生じる「責任からの解放」の産物だということである。指導者の指示に従ってさえいれば、自分の行動に責任を負わずに済む。その解放感に流されて、思慮なく過激な行動に走ってしまう。表向きは上からの命令に従っているが、実際は自分の欲求を満たすことが動機となっているからだ。そうした下からの自発的な行動をすくい上げ、「無責任の連鎖」として社会全体に拡大していく運動が、ファシズムにほかならない。

これは一部の過激な新宗教の勧誘とか運動も連想してしまう。 拡大を防ぐためにメディアや既存の政治家は重要だけれど、一度囚われた人間を戻すのは難しそう・・・

そんなことを思いました。 ちょうど最近は岩波ブックレットで「検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?」という本も出しているけれど、この問いにはあまり関心がないので読まなさそう(必要なひとはいるだろうので意義あるとは思います!)

関連) dai.hateblo.jp

「三体0 球状閃電」すばらしい研究開発SF

三体0を読みました。 あの世界的にヒットした傑作SF三体3部作の前編、prequelです。 でも、三体を読んでいなくても楽しめるし、むしろ三体を読む前のほうが楽しめるかも。実際の執筆順もこちらが先で、中国では単に「球状閃電」という名前で2004年に公開されたということ。

主人公は球電、ボールライトニングと呼ばれる現象に遭遇しこの研究にのめりこんで、大学に進学して勉強を重ね博士課程にも進む。その後、球電の兵器としての可能性に目を付けた軍とかかわるようになっていき、球電の謎を解き明かしていく・・・。

という物語なんだけれど、SF的な仕掛けというかはったりが強いうえに自然で圧倒された。 やや気弱に感じる主人公が研究に取り組んで、博士号取得に苦労したり、研究のスランプに陥ってそこから復帰するさまなど、ちょっと等身大の研究者に近いさまが描かれたSFは珍しく感じる。また、兵器開発というのも重要なテーマになっていて、主人公の葛藤もいい。

いくつかのセンシティブなモチーフがあり、いま中国でこれを書けるのかは少し気になる。ソ連アメリカの剛腕さも迫力があります。

最初1行目の注釈から緊張感があって、1割ほど読んで、え、こんなおもしろくてペース続くの?と不安になって2割くらい読んだところでやばすぎる、となって3割くらいで主人公と同期して放心しかけて、5割くらいでまじで、となって勢いで読み終えたしまった。

SF初心者にも読みやすいとも思えます。

以下ネタバレ感想。

まず、

本書における球電の特徴やその動きの描写は、すべて二〇〇四年時点の歴史的事実に基づく。

という注釈からはじまる作品で緊張感が高まる。

林雲や丁儀など中心的な登場人物も特徴的で鮮烈だけれど、指導教官の張彬が地味に味わい深くてよかった。趙雨や高波も、どこか大学にいそうな感じがとてもいい。でも、主人公、球電に翻弄されつつのめりこむ陳の等身大さが自然で物語にのめりこんでしまった。

一番好きなシーンは

「大佐、すぐに戻れますか?」「戻って何をするんです?」「球電の研究ですよ、もちろん!」

これは三体IIでの羅輯のひらめき、にも通ずるものがある。 その前のスランプ中の生活が具体的でよかったけれど。

新しい生活になじもうと努力した。オンライン・ゲームに課金し、サッカーを観戦し、バスケットボールをプレイし、徹夜で麻雀をやった。専門書はすべて図書館に返却し、かわりに大量のDVDをレンタルした。株もはじめたし、小犬を飼おうともした。シベリアで手ほどきされた飲酒の習慣が尾を引いて、ひとりで飲むこともあったし、知り合ったばかりのいろんな友だちとも飲みにいった。恋人を見つけて家庭を築こうとも考えた……が、まだそのチャンスに恵まれていない。午前二時まで偏微分方程式を見つめたままぼんやりすることも、十数時間コンピュータを見守りつづけて最終的に失望の憂き目に遭うことも、もうなかった。(中略)自分がいままで見下していた人たち、もっと言えば憐れんでいた人たちが、みんなぼくよりずっと充実した生活を送っていたのだとはじめて悟った

この葛藤、ちょっと刺さってしまった。自分はなにかひとつのことに執着できていない・・・。

地味な研究だったとさらっと流された張彬の研究が後半に生きるのもあつかった。

テロリズムの描き方にはすこし唐突さも感じたけれど、個性的なテロリストのインパクトと、兵器としての使い道と終盤での使われ方にはつながった。もうちょっと共感できそうな動機や葛藤があってもよかったかもはしれない。

戦争の描き方は巧妙。主人公は軍にかかわっているけれど、あくまで間接的に外の世界の出来事として描いて、経緯にもまったく触れず、相手の国名も明示はしない。 とはいえ、「カール・ヴィンソン」や「ジョン・C・ステニス」「ハリー・S・トルーマン」という艦名からはアメリカなことは明らかではあるけれど、その強大さを描けていて、中国・アメリカ、どちらの人が読んでも自尊心を害さないようにも思える。

印象的な丁儀のセリフ

物理学者はこの世のことなんかなにも気にかけていない。二〇世紀前半、物理学者たちは原子力エネルギーを解放する公式と技術をエンジニアと軍人に引き渡したあと、広島と長崎が支払った代償を見て、欺かれ傷ついた純粋無垢な人間のようなポーズをとった。どうしようもない偽善者だ。実際は、自分たちが発見した力が現実にどう働くか、見たくてたまらなかったくせに。これこそが彼らの、いや、ぼくらの本性だ。ぼくと彼らの違いは、ぼくが偽善者じゃないことだ。

読んだら感想を教えてください。ビデオチャットでもかまいません。

三体についてはここでも書いていた。

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「歴史学のトリセツ(小田中直樹)」多様な歴史の方法論

ちくまプリマ―新書の「歴史学のトリセツ」を読みました。学問として確立しているようにみえる歴史学のさまざまな潮流をわかりやすく説明していて、アカデミアのダイナミズムのようなものを感じられるのがよかった。

まず、授業で学ぶような歴史はなぜつまらないかというと、これは歴史学の主流をつくったランケに連なるランケ学派の特徴によるという。ランケによれば歴史学とは「それは実際いかなるものだったか」を明らかにする学問領域であり、その根拠を公文書をもとにする実証主義だったこと。

これは客観性を確保するために意味はあるけれど、これによって記憶が排除される問題もあった。かなり極端な例だけれど、ポーランドでのソ連軍による虐殺、カチンの森事件第二次世界大戦後のポーランドソ連の衛星国だったことから、ドイツの所業であると公式見解になったのもあるし、政権交代時には前の時代を悪く記述する歴史書が編纂されたという問題も想起する。

また、知識を欠如した非専門家に向けて、専門家が知識を与えるという、科学技術社会論(STS)でいう欠如モデルにもつながっているのと、国家を単位に歴史を記述するナショナルヒストリーに傾斜しているという問題もあるという。

そんな歴史学に対して、アナール学派、労働史学、世界システム論、比較経済史学やパブリックヒストリーなどさまざまな方法論が生み出されている。それぞれ、着眼点と切り口が違うことで過去を別の角度から解釈できて興味深い。ただ、着眼点の違いによってどんな問題を解決できるかは気になった。

著者の東北大学の経済学研究科教授、小田中直樹先生は歴史学のおもしろくなさに問題意識をもっていて、どうおもしろくするかを気にされているけれど、歴史学のおもしろさは最近の日本スゲーとか「太平洋戦争で植民地を解放した」みたいな方向にもなりかねなくて危うい気もする。

いっぽうで自分が歴史を学ぶモチベーションを考えてみると、単なる好奇心が大きいようにも思うけれど、心のどこかではなんらか役に立つものを求めているのかも。これは「愚者は経験に学ぶ、賢者は歴史に学ぶ」というビスマルクの発言の誤訳の影響もあるかもしれないし、暗黒の未来を生きていくのに過去のパターンを参考にしたいという臆病さもあるかも。

過去におきた真実には到達できず、近づくことしかできないし、近づいたとしても(人間が読める形には)記述しきれないことから歴史学にはさまざまな方法論があるように思える。情報学なんかだと解決したい問題ありきだし、自然科学だと真実にアプローチする手段は多数検討されても優劣が比較しやすかったりで歴史学ほどは分派しないようにも思う(仮説はたくさんああるにせよ)。歴史学より派閥がわかれているのはマクロな経済学くらい?これは実経済に対してきわめて小さな規模でしか実験ができないにもかかわらず、為政者から知見を求められるからなんだろうか。とか考えました。

「ヒトラーとナチ・ドイツ」(石田勇治)を読んだ

石田勇治先生の「ヒトラーとナチ・ドイツ」読んだ。民主的なワイマール憲法下でなぜヒトラーが権力を握るに至ったか、ホロコーストを実行する組織はどうつくられたかが書かれていて恐ろしくも学びがあった。

第一次世界大戦後、多数派政党が形成できず議会が機能不全をおこしていたなかで保守派が首相の権力を強化しようと考えていたところに支持を伸ばしつつあったヒトラーを傀儡にしようと首相にしたところが返りうちにあった、そして権力を握ったことでメディアと治安組織に影響力をもって左派勢力を弾圧し権力を強化したという。この構図はトランプ現象を思い起こす・・・。

驚いたのはヒトラーは国際的なユダヤ人ネットワークがドイツを苦しめていたと信じていたらしく、ユダヤ人追放にかなりリソースをさいていたということ。これは現在の陰謀論にも通じそう。ユダヤ人追放で住居、財産や役職を得たドイツ人が多かったこと、ロシア侵略が失敗し追放先が白紙になったことで殺戮に切り替わったこと、そこでは障害者の安楽死に従事していた人員とノウハウが活かされたのは怖すぎる。

おもしろかったのは反乱を恐れるヒトラーのもと組織間の連携をとらないようにしたり省庁間を競わせるようなところがあったということ。ヒトラーの単独支配というよりは、最近の研究では多頭支配だとみられているのも興味深い。ほかの共産主義独裁国家は単独支配に近そうかな。国家運営が複雑になっていたということや各ナチス高官は公職のほか職業や地域コミュニティの役職も兼務するなど猟官に盛んだったというのも戦乱期の中国を思い起こす。

そんなドイツで電撃作戦を成功させてパリ占領を達成するなど軍事的には強力だったけれど、これを裏付けるだけの統制されたロジスティクスがどうなりたったかとか、大衆はどうしていたかとかは気になるところ。

ナチスの経済政策はよかったのでは」というさかしらな質問をたまに目にするけれど、これについても回答されている。パーペンら前政権の財政出動の成果がではじめていたり、景気回復の準備ができていたこともあるし、若年層の勤労奉仕制度で労働力供給を減らしたり、女性就労者を家庭に戻すことなどで失業率を回復させたことは事実。アウトバーンについてはもともと着手されていたし、ナチスの宣伝によって成果として記録されたこともあるそうだ。

ちなみにこの質問がたびたび出てくるのはナチスを絶対悪とみなすことへの反感だとは思う。もちろんナチスのしでかしたホロコーストや侵略という行為は許されざる人類悪なんだけれど、ヒトラー政権はワイマール憲法下でまがりなりにも合法的になりたっていたものだし現在の自分たちの営みとも地続き。これを絶対悪としてみなして距離をおくことは学びの機会を失ってしまうと思うので質問自体を愚かだと判断するべきではないとは思う。

読書メモ:「日本会議の正体」(2016, 青木理)

読んだ。政治家を含め多数の関係者にインタビューしていて、なにかと黒幕的に語られるこの組織のことについて知ることができた。 日本会議のやろうとしていることのいくつかは全然賛同できないし、国益を損なっているところもあるとは思うけれど、(旧統一教会のように)邪悪な組織ではないし、なんというか地域のノスタルジー活動家互助会のでかいやつみたいな印象だった。全国にネットワークをつくって地方議会に働きかけて中央を動かそうとする「社会運動」のノウハウをつくっているものの、目指すところは「古き良き日本」という関係者間でも合意を得にくいところでふわっとしてしまっている。

夫婦別姓を認めない姿勢とか歴史修正主義とか、ひとつひとつの行動は批判できても組織について筋道つけて批判は慎重にしないとレッテル貼りにしかならず分断を招きそうだ。

いくつかおもしろいところはあった。 まず、成り立ちとして、生長の家を源流とする運動と神社本庁を中心とする神道系が中心になったこともあるんだけれど、組織だっていた左翼運動へのカウンターという側面も大きいようだ。これは、ネット上での反野党として団結するような動きとも通じるところがあるかもしれない。

そして、1997年の日本会議設立後はじめての中央大会で決議された7つの目標について、憲法調査委員会の設置や防衛省の設置、北朝鮮による日本人拉致疑惑の解明と救済にならんで、「夫婦別姓制度の導入反対」が挙げられているのが目を引いた。これは単に前年に国会で話題になったからというだけな気もするけれど、どういう背景があるんだろう。このへんの家父長制への憧憬は旧統一教会とも通ずるところがあるようにも思える。ただ、著者の姿勢は前のめりにすぎるかなあ(稲田朋美のインタビューでの深読みとか)。

あとは精神的・資金的に大きな支柱となっているものとして明治神宮が挙げられている。昨今は再開発でもめているけれど2011年時点でグループの明治記念館だけでも年間売上約110億円というのがすごかった。

ちなみに何度も出てきて日本会議の主要メンバーを何人も輩出している新宗教の「生長の家」は教祖の谷口雅春は戦争推進を支え戦後は改憲と強く主張していて創価学会公明党の躍進に危機感をもって政治運動も強力に進めたけれど、途中、政治運動は放棄して3代目になると安倍政権に明確に反対するようになったりとなかなか複雑でおもしろい。

ほかおもしろかったところ

  • 1989年に首相になった宇野宗佑は神楽坂の芸者を月 30 万円で愛人として囲っていることをサンデー毎日が報じたもののマスコミは黙殺、ただし米紙が報じるとそれを逆輸入する形で各新聞も報じて退陣に追い込まれた
  • 1993年の皇太子の結婚相手についても報道協定があり報じられなかったなかでワシントンポストが記事を掲載し、日本のメディアも慌てて追随した
  • 日本会議についても海外での報道から国内メディアにとりあげられるようになった

このあたりのメディアの自重は知らなかった。

日本会議が設立大会で披露した「基本運動方針」

  1. 美しい伝統の国柄を明日の日本へ 国民統合の中心である皇室を尊び、国民同胞感を涵養する
  2. 新しい時代にふさわしい新憲法を わが国本来の国柄に基づく「新憲法」の制定を推進する
  3. 国の名誉と国民の命を守る政治を 独立国家の主権と名誉を守り、国民の安寧をはかる政治の実現を期す
  4. 日本の感性をはぐくむ教育の創造を 教育に日本の伝統的感性を取り戻し、祖国への誇りと愛情を持った青少年を育成する 以下省略

このあたりを読むと民族主義的な保守としてはまあふつう。

2015年4月現在での日本会議の会員は約3万8000人。この前年の2014年4月時点では約3万5000人だったというから、着実に会員を増やしているといっていい。 正会員の年会費は1万円。このほか維持会員3万円、篤志会員 10 万円、女性会員5000円といった会費が設定されてはいるものの、単純に全員が正会員だったと計算すると年間の会費収入は3億8000万円に達する。

年粗利数億円規模の組織なかなかすごい。

時事問題にかんする声明文や行事ごとの決議文などは 10 人ほどで構成される「政策委員会」の審議を経て概略が決まるらしく、日本会議関係者によると、メンバーには百地章(日大教授)、大原康男国学院大名誉教授)、高橋史朗(明星大教授) らが名を連ねている。いわば日本会議の“理論的頭脳”というべき面々だが、このうち百地と高橋もまた、もともとは生長の家学生会全国総連合(生学連) の活動家出身

高橋史郎は親学推進協会理事長で、発達障害は教育で治るとか主張しているトンデモ。教育を大切にすることを基本運動方針に掲げているのなら教員の待遇や環境改善などすすめてほしい。

そんな感じです。

「物語 アイルランドの歴史」(波多野裕造)を読んだ

従妹がアイルランド人と付き合いだしたものの、祖母が英語もアイルランドのこともわからないと言っていたので手に取ったんだけれどかなりおもしろかった。

アイルランド大使の波多野裕造が日本ではアイルランドについて学べる手軽な本がないとのことで1994年に書いた本で、歴史や事件や文化について新書にまとまっている。 たしかに、高校世界史でもアイルランドはじゃがいも飢饉で触れられる程度であまり世界史での存在感はない。不勉強な自分にとっては、アイルランド系の移民で活躍している俳優や実業家がいるなあ、とか、かつては IRA のテロがさかんなことが名作マスターキートンでたびたび触れられていたなあ、とか、北アイルランドはイギリス領なことはちょっと不思議、とか思っていた程度だったけれど当然、固有の深い歴史がある。

豊かな自然があって妖精の伝承もあって、ドルイド教が残るなかでクーハラン(クー・フーリンと書いたほうが現代日本で伝わる?)のような英雄伝説があったり、群雄割拠で争いもたびたびあった。さらには「ストロングボウ(強弓)」と呼ばれた優男然とした伯爵でもある司令官や、「殺戮者」というあだ名で知られた伯爵がいたりとかで三浦建太郎の「ベルセルク」の世界を連想してしまった(ちなみにアイルランド独立の立役者にはグリフィスもいる)。

アイルランドはよく妖精の国といわれる。それは森と緑に恵まれ、すぐに霧がかかったり、通り雨のあと木立ちの間に射す陽光から虹が立つ、というこの国の変わりやすく美しい自然環境が、いかにも妖精が棲んでいそうな雰囲気を醸し出しているからで、事実こんもりと茂った古木の薄暗い影には、いつも何かが潜んでいるような気配がある。アイルランドでは晴れたり、曇ったり、雨になったり、という気象の変化が目まぐるしく起こり、一日のうちに春夏秋冬をすべて経験することができる、といわれているほどである。

といった書き出しからはじまるコラムもいくつかあったり、写真もいくつか紹介されているのもうれしい。

アイルランドは、ヴァイキングの侵入や、イギリスからの支配など、わりと苦難の歴史がある。隣の大国イギリスから12世紀以降支配されて、たびたび争いもあったんだけれど、ここでの植民地支配のための試行錯誤が後世の、イギリスの植民地支配の間接統治などに代表される巧妙につながったのかもしれないと思えた。これは歴史に物語を読み込みすぎかもしれないし、植民地支配の比較史みたいな研究もたぶんあるだろうけれど。

もうひとつ興味をそそられたのは独立の過程。とくに、続いていた自治論者による独立運動が下火になって、イギリスとの連合に前向きだった世論のなかで、独立運動側がしかけた武装蜂起がずさんだったためにすぐに鎮圧されて首謀者が処刑されたことが市民の同情心を高めてかえって独立に大きく動いてしまったことには歴史の皮肉を感じずにはいられない。そのあとは独立戦争があってなんとか独立した。けれど、プロテスタントが主流派でイギリスとの連合を求める北アイルランドユニオニストや、全国統一を目指すカトリックが多数派のナショナリストとの争いは IRAテロリズムにもつながっていくんだけれど・・・。

ほか、クロムウェルによるアイルランド迫害がアイルランド独立運動の原動力にもなったというのも興味深い。

あとは、アイルランドの農業史。イギリスの支配効率化のために入植地にしめるプロテスタントの割合を定めたことも気になった。これは、1603年に王位をついだジェームズ一世によって、1000エーカー(400ha)あたりプロテスタント家族10世帯の入植を義務付けたこと。ちょっと数字は怪しいと思うけれどイスラエルキブツや、日本の満州や北海道入植も思わせる。

飢饉の後、小作人たちが組合を形成して大きな政治力を発揮して地主に対抗したことあたりも興味深い。マイケル・ダヴィットにひきいられた土地連盟は、地主との小作料・小作権の争いをバックアップして、1880年ごろには事実上の「第2の政府」となって、裁判の実権を握ったそうだ。ちなみにここで連盟と争った仮借なき土地差配人として知られた(原文ママ)、チャールズ・ボイコット大尉の名は、かれに対抗した農民の不買運動の代名詞になっている。

土地連盟の政治闘争で、小作料が引き下げられて、地主にこれなら売り渡したほうがましだ、となって自作農が増えたというのもマッカーサーの農地改革のような強権的ではない、農地の移譲プロセスとしておもしろい。

ちなみに悲惨なジャガイモ飢饉の農業的背景については、「世界からバナナがなくなるまえに」がおもしろかった。タイトルではバナナだけかと思ったけれど、さまざまな食糧危機の現場と農学者にフォーカスした良書です。

ここでもちらっとふれていた。 www.on-the-slope.com

というわけでアイルランド、行ってみたくなりました。昨今、味が変わったと話題のギネスにも行ってみたいですね。

「ラオスにいったい何があるというんですか? 」(村上春樹)・・・旅に出たくなる旅行記

いちどルアンプラバンを訪れたこともあってラオス大好きなので読んでみた。期待とちがってラオスはほんの一章だったもののなかなかおもしろい (ちなみに村上春樹の小説は10ページくらいしか読んだことはありませんが、オウム関連のノンフィクションはよかった)

本書はJALのファーストクラスの機内誌AGORA(そんなものがあるらしい)などに掲載されていたものをまとめた本で、ボストン/ニューヨーク(アメリカ)、東西ポートランドアメリカ)、ギリシャの島々、トスカナ(イタリア)、フィンランドアイスランド、ルアンプラバン(ラオス)、熊本 などを訪れたり、住んでいたころのことを書いたもの。

軽い筆致で描かれていて旅、いいなあ、と思える本。ゆったりした旅や滞在が多くてゆとりも感じるけれど、いい旅行記。音楽好きすぎる村上春樹の視点の飾らなさがよい。 そしてさまざまなところを書いた中でも、ラオス編がおもしろくて、ラオスまでの乗り換えの際にヴェトナム人に言われたという「ラオスにいったい何があるというんですか? 」をタイトルにもってくるのは(全編ラオスだとだまされたものの)成功だと思う。すごい。

いくつか引用。

ポートランドアメリカの中で、人口あたりレストランの数がいちばん多い街なんです」と地元の人は言う。「また人口あたりいちばん読書量が多くて、それから大きな声では言えないけど、教会に通う人がいちばん少ない街なんです。」

西海岸にも東海岸にもポートランドがあるの知らなかった。ファーマーズマーケット的にも気になるエリア。

もしタイムマシーンがあって、それを一度だけ好きに使っていいと言われたら、あなたはどんなことをしたいですか? きっといろんな希望があるんだろうな。でも、僕の答えはずいぶん前からはっきり決まっている。1954年のニューヨークに飛んで(基本的な愚かしい質問。タイムマシーンって飛ぶのだろうか?)、そこのジャズ・クラブでクリフォード・ブラウンマックス・ローチ五重奏団のライブを心ゆくまで聴いてみたい。それがとりあえず僕の望むことだ。

この導入と意外性、さすがすぎる

僕ら(僕と奥さんと)がしょっちゅうトスカナに行っていたのは、言うまでもなく、おいしいワインを買い込むためだ。トスカナの小さな町を巡り、その地元のワイン醸造所に寄って、気に入ったワインをまとめ買いする。そして町のレストランに入っておいしい食事をする。小さな旅館に泊まる。そういうあてもない旅を一週間ほど続け、車のトランクをワインでいっぱいにしてローマに帰ってくる。そして僕はワイン・グラスを傾けながら、またしばらく自宅の机に向かってこつこつ小説を書く。そういう生活を何年か続けていた

よすぎる

「ああ、ほかの旅行についても、もっとちゃんと文章を書いておくんだったな」という後悔の念が、微かに胸の内に湧き上がってきます。 た。でも今さら後悔しても始まりません。旅行記ばかりは旅行の直後に気合いを入れて書かないと、なかなか生き生きと書けないものだからです。

これもわかる。 本書ででてきたアイスランドは自分も新婚旅行で訪問してとてもよかったのだけれど、旅行記にしそびれてしまっている。いまが今後の人生で一番記憶もあるので書いてみようかな・・・。 旅行だけではなく、本や映画の感想も同じかも。

むかしは、旅行なんてめぼしい観光地はテレビのほうが最高のロケーション、最高のタイミング、高価な機材で撮っていて素人がいってもただ行っただけになって意味ないのでは、と軽んじていたけれど、そういう観光地以外の部分の、知らない街の空気にふれるだけでもおもしろいし発見があるように思えています。 そして、異国はおもしろいけれど、観光地ではない近所にも知らない景色はたくさんあって金銭的時間的にもやさしく体験できるとも思っています。

最近、月に何度かあるソロ子守りの週末には、子守りがてら滋賀県の全駅を歩こうと画策していていま進捗4分の1くらいなんですがなかなかおもしろいですよ。旅行記を書いてみようかな。

作中ででてきて行きたいところメモ(国内編の熊本のみ・・・)。

熊本、なかなか行く機会がない。4-5年前に妻と鹿児島に旅行した途中で寄ったときのタクシーの体験が悪くて印象悪かったままだけれどまた行ってみたい(熊本出身者の知り合いはみんなナイスな方々だと思っています)。そういえば、このときは天草にも行こうとしていたんだけれど、台風で飛行機が飛ばず断念したんだった。これもいつか行かねば。 ほか、よい旅行記あれば教えてください。

「ドキュメント 日本の米づくり」(1987, 村野雅義)で米農家の悲哀を読む

たまたまみかけて*1買って読んでみた村野雅義の「ドキュメント米づくり」(1987)がびっくりするほどおもしろかった。

1986年に福島県浪江町(!)の山側の標高600mほどのところにある、とある家族経営の農家のところに足しげく通って米作りを体験した著者による記録なんだけれど、その農家さんの人生や、(当時の)農業をとりまく状況について鮮明に描かれている。当時の、ひとつの零細農家の生活を追った農業エスノグラフィー(民俗誌)として傑作。

舞台となる菅野家は水田が50アール(5反)、畑が100アール(10反)、畑の半分がタバコ栽培、あとは自家用野菜と小規模で、主人の菅野清は代々農家だけれど、砕石の仕事と兼業で生計をたてている。 280pほどの本だけれど田植えをするのは100pを超えてからだったり、稲刈りしてからもたくさん仕事があったりと稲作生産者さんの生活を追体験できた。

特に印象深いのが、農家のあるじである菅野清の妻、光子さんの言葉。

「頭いじめらんねモンは、こうして身体いめじるしかねえんだぞーう」

「奥さん暮らしなんか、すこしもしたくなかったぞう」

(雑草を抜きながら)「ほーら、これがピチピチ草だぞう。三角草もあっぞなあ。博物館だあ、おれの田んぼ・・・」

「まだ仕事、いっぺえあんだ。くろぬりやんねえで、どないすんだべえ。いま帰って、そんで米をつくったなんて言ったら、日本中の百姓に笑われちまうぞーう」

「こうやって雨になると、おれの葉タバコがはかどるんだぞなあ。オヤジも家の中にいるっきゃねえから。手伝ってくれるからなあ」

(著者の「こんなにいっぱい肥料撒かなくてはならないんでありますか」に対して)
「んだ、んだ。ひとつ1900円ちょっとするだぞーう。お米のマンマは、人間のマンマよりもたけえんだぞなあ。たまんねえ」

ほんと働き者で愛嬌が伝わってくる。食文化も興味深い。

「ときどき、子供が入ったタニシがあってよう。口の中で、トロっとしてうまかったぞなあ。肉よりうめえぞう」

「ワラは、昔は、ワラジつくったりしたんだべえ。おれ、小学校のとき、ワラジだったえ・・・。あと、煮た大豆くるんでよう、地面に穴掘って、埋めてなあ、納豆つくったぞな。その納豆、正月に食ったんだあ。うめえぞう」(これは高野秀行の「謎のアジア納豆 そして帰ってきた日本納豆」で読んだやつだ!と思った)

「おれがちっちゃかったころだぞう。馬ぐぞ集めってあってなあ。雪がとけっと、道に馬や牛のくそがいっぱい出てくんだ。バッパが、馬ぐそ集めてこーいって言うんだ。チリトリとホウキ持って、かき集めたもんだぞなあ。箱ひいて、近所のくそまで集めたぞう」
2023年時点では89歳、お元気だろうか・・・。311の自身のあと、全町避難指示がでてちりぢりになっているように思うけれどどうだろう。。

ほか、菅野の言葉

「四つの田んぼ、それぞれに水はけが違う。土も違う。人間さまみたいに田んぼにも、一枚一枚、個性があんだべなあ」

「おれが百姓はじめたころは馬で耕してたんだな・・・。馬のうしろに太いロープつけて、そこに馬グワって木でできたクワつけてなあ。馬グワは死んだジッチが追ってたなあ、おれは馬の鼻につけたヒモ引いてカジとったんだ。小学校行ってた子供のころ、うまくカジとれなくてなあ。いつも叱られて、泣いてたべなあ」

そして田植えなど要所要所手伝いに来てもらっている息子との会話も味わい深い

「おれ、百姓なんかやりたくねえもん、あんなトラクターいらねえもん」「おれ、この広い土地使ってなにかもうかる商売してえんだ・・・釣り堀とか」
「馬鹿言ってるねねえ、こらーっ、マー(息子のこと)。ご先祖さまにバチがあたっぞー」

「まあ、おめえが百姓やりたくなったら、いつでもやれるようにしといてやっから・・・・、いつでも水境*2にもどってこいやあ」

ほか、著者は米づくりの作業をしながらでてきた疑問について、かなり遠出しても専門家に取材しているのもおもしろい。日本中から注文が集まる富山の種モミづくりの村の最長老、大嶋正一さん。28歳で水のかけひき(間断潅水)を考え出して単収857キロを記録し米づくり日本一として表彰もされた、当時63歳(1923年ごろ生?)の富山県高岡市の土肥敏夫さん。田植機開発の功労者、関口正夫や、箱育苗箱を考案した松田順次さん。福島の農業試験場種芸部長、農林1号を育種した並河成資にその元の種を送った1897年生まれの稲塚権次郎さんなど、現代農業をつくってきたレジェンドの雰囲気をよく表現している。もうとっくにお亡くなりになった方々へ飾らないインタビューできているというのはグッとくる。

自殺した並河成資氏のエピソードは鳥肌が立った。胸像内のガラス瓶におさめた種を、1000年ごと10000年後に開封するように指示している時間間隔がすごい。

しかし米価は一等米が約30kgで18,505円、二等米が18,185円で事前売渡限度数量という制度で60袋しか売れないとの契約があり売上54万6031円。ほか葉タバコもあるけれどやっていけるのか・・・。5反なので反収10.4万円。。それは農業続ける人減っていくよなあ、という状況。この時代、いまよりも農業への風当たりは強かったのでは、と思うけれど、直接の補助はあまりなかったようだし(農地・水路整備や農機購入補助とかがメインな認識)、こうした兼業農業者がプライドで農地を維持し、農の多面的機能を発揮し続けてくれていることを思うと、ちょっと難しい感情になる。一部の論者がいうようにかれらの退場を早めたとして、軋轢をうみさえすれ、なにかいいことあったのだろうか。とも(平地では集約は進むかもしれないが、それでは単価が安くなるだけなように思う)。

農作物の価格については雑文を書いていました。

dai.hateblo.jp

本書のおもしろいのは数字もよくだしていることで、稲刈り間際に一株頼んで抜いて穂やモミの数を数えて、836粒18.4gあるとしたこととか30kgの米袋に140万粒はいっているという推定とか。農業について風当たりの強かった時代、食管法のもとで振り回される農家のことが透けてみえる。ほか余枡といって、30kgの袋に余分に500gいれる明文化されていないけれどみな従う文化とか、くず米の選別基準とか知らないこともたくさん知れておもしろかった。令和版もだれかやってほしい。

*1:下鴨納涼古本まつりでみつけた。本のレビューを書くのに古本を買ったというのはあまりよくないけれど、30年以上前の本だしいいか、という思い

*2:集落名

「食と建築土木」でみるDIY精神

書店でタイトルに惹かれてぱらっとめくって、すぐにこれは傑作だとわかって買った本。 農村漁村にある人の手による工作物をいろいろ紹介しているたたいへんいい本でした。

干しダイコンをつくるための大掛かりな(下をトラックが通れるような)木造の櫓(ろ)とか、ウドの軟化栽培のための小屋、凍み豆腐を干す台とか、芋切干の穴とか、木造ビニールハウスでのみかん栽培、宇治の覆下茶園とか。それぞれ歴史もあったり、特定の風を活かすためなど土地特有の背景やおいしいものをつくるための工夫・知恵がおもしろい。

必ずしも、伝統のあるものというわけではないし、生活のための商品生産が主眼にあるんだけれど、その実用第一からなるミニマリズムというか無骨さがかっこいい。 DIY精神を感じるし、室戸では、戦前から和紙と竹で温室をつくっていて、強風ですぐ壊れるけれど野菜をいち早くつくって大阪に持って行って相当儲けていたというエピソードもあってハッカー精神を感じる。

農作業のための小屋などを多数とりあげている「マイクロ・アーキテクチャー 小屋の力」とも通じるわくわくさがある。

食味をよくしていくための工夫もあって、こういうプロセスに注目されることでブランド化になって商品も残ってほしい。 宮崎の大根やぐらの沢庵漬け、宇治田原の古老柿、福井のつるし柿(燻した干し柿)、長崎の茹で干し大根とか、長崎の茹で干しダイコンとか福島の凍み豆腐、静岡の芋切干し、淡路の灰干しワカメは食べてみたい。

ほか、建築家の藤森照信さんと著者の対談もあってめちゃめちゃおもしろい。

  • バーナード・ルドルフスキーの「建築家なしの建築」をひいている。レヴィ=ストロースのブリコラージュとは、組み合わせて新しい体系をつくることそのもので茶室がもっともよい標本という指摘も。
  • 今和次郎さ(1888-1973)の民家研究
  • 「自然破壊の原罪は農業にある」というのもほんとそう。農地が森林を潰して、その農地を住宅と工場が潰している
  • 大規模農業の末路・・・勝ち組はどんどん大きくなるけれど人口は増えない。例:オーストラリアなどの農家が1県に1つみたいな状況でコミュニティが維持できない。 とか

藤森さんの仕事はほぼ知らないけれど、(晩節を汚しつつある)猪瀬直樹の名著「土地の神話」の解説がよかったのを思い出した。

dai.hateblo.jp

「スローな未来へ」などの著者、島村菜津さんとの対談も、イタリアとの景観についてのスタンスの違いや変遷や、昔ながらの加工品に関連する制度を紹介していてよかった(後藤さんのイザベラ・バードの引き方は疑問だけれど)。

  • その地域で真面目にやっている人ほど、こうした町並み保存に最初は反対するというのも重い(そしてそういう人がのちに保存運動を主導することもしばしば)
  • 世界の傾向では車をシャットアウトした地域のほうが成功している(これは事例と不満は気になる・・・)
  • 衛生に対する過剰な意識は難しい。イタリアでは90年代に140ほどのレアなチーズが衛生法の影響で消えた。
  • 複合的なものを、日本の行政では文化的景観とひとまとめにして扱おうとしてうまくいっていないところもある
  • 農村だけではなく、日本の都市景観も大切。イタリアでは、大都市の住まい方を見直す→小都市→地方の農村と進んだからスムーズだった
  • 触れられていた 「九州のムラへ行こう」という雑誌も気になる(近畿版ないかな)

著者は「それでも『木密』に住み続けたい!路地裏で安全に暮らすための防災ばちづくりの極意」という本も書いているそうでタイトルだけでよすぎてポチりました。

ちなみに本書は基盤Cの成果らしいです。

『マーガレット・ハウエルの「家」』を読んだ

周囲?で流行っていた流れで手に取りました。

tymikii.hatenablog.com

マーガレット・ハウエル、自分は知らなかったのですが有名なブランドで、シンプルな服をつくっています。その創業デザイナーの住まいについての本です。

www.margarethowell.jp

(シャツが2万円とかからなのでなかなか高級!デパートによく入っているようですが、これまで認識したことはない・・・。しかしブルゾンいいな・・・)

気取った感じはないし、いろんなものを取り入れて自然な印象。無造作なんだけれど、おさまりがよくておもしろい。

p80の本棚の様子やp88のビーチハウスとか好き。

家具やテーブルウェア、食器も古いものを大切にしている。こういうのがあるといいよなあ、と思う。ただ、イギリスのおしゃれな家であって、こんな生活日本ではとてもできない・・・という思いもある。日本でじゃ大きな違いは土地かも。

妻が好きなベイクオフという、イギリスの、パン作りコンテストのテレビ番組でも参加者の家はどれもいい感じだったのも思い出した。

日本だと、高機能だけれど狭くて無機質的なマンションか、駅から遠い一軒家か、いい感じだけれど寒くて結露する団地的な古いマンションかくらいしか現実的な選択肢がなくてなかなかこの本のような生活はできなさそうでため息が出る。

欧米の調度で連想したのは、Amazon プライムビデオでみた「メイジーの瞳(2014)」。 これも内容はさておき、調度の上品な高級感とかすごかったんだよなあ。

映画についての感想はかつて書いていました。

dai.hateblo.jp

冬に寒くなくてエアコンがとりつけられるお風呂にカビの生えにくいいい感じの家に住みたいものです。

伊藤俊一「荘園」で学ぶ農地の成り立ち

このところ、なんとなく農地というものに興味があってその流れで手に取った。 荘園なんて歴史の教科書で地味にでてきた用語、と思うかもしれないけれど、じつは新書大賞2022で3位と注目されているし、日本の歴史を考えるうえでも土地は重要。

土地と歴史の関係については、(晩節を汚しつつある)猪瀬直樹さんの傑作「土地の神話」の解説にて建築家の藤森照信氏がコンパクトに洞察しているので長いけれど引用する*1

日本の歴史の教科書を開いてみれば分かるが、歴史の転変の肝所ではきまって土地が顔を出す。やや固い知識になるけれど、たとえば、伊根を育てる土地としての水田の確立から今日に直結する日本の歴史は芽を吹き、班田収授の法によって古代国家の基礎が定まり、それをなし崩しにした荘園によって中世の貴族や寺院といった指導層は支えられ、その荘園を荒らし回り切り取った土地に一所懸命の者どもによって武士の時代が始まり、そして武士の時代は秀吉の検地をへて、家康の封土を基盤とする封建制に行きついて安定する。原始、古代、中世、近世と、歴史の基盤は土地なのだ。この勢いは、近代に入っても変わらない。明治の新政権は、風封土を解体し地租改正によって近代土地制度を確立し、さらに、先の敗戦のおりの農地解放によって今日の日本の基礎がつくられた。 *2

※ これに続く歴史家と歴史学者の違いについての藤森氏のお考えも、歴史学者による本書との絡みで興味深いけれど、これは省略。

本書「荘園」では、研究の積み重ねによる詳細な荘園の制度や概念が整理されている。 2点、驚いたことについて書いてからいくつかおもしろかったところを紹介する。 まず、荘園そのものについてではないけれど、昔の(11世紀ごろの)農家は移動が自由だったというのは全然知らなくて驚いた。いろいろ移動したり雇われて耕作しており、戦後の先祖代々の土地を守っていたというのはもうちょっと近代になってからの様子。家族観とか郷土観はどうだったんだろう(その自由がない下人もいるはいたとのことではある)。

この時代(引用者注 11世紀ごろ)の農民は、後世のように先祖代々の屋敷と田畑を守って定住しているのではなく、時々の国司荘園領主の求めに応じて、転々と住まいと働き場所を変えたのだ。 *3

もうひとつが源頼朝が軍功の恩賞として、敵方の荘園の下司職(徴収権をもつ荘官)を分け与えたことが当時は脱法行為でかつ画期的なことだったということ(中学校の授業ではそういうものかくらいに思っていた)。これは覇権をとる組織は、画期的な人事制度を発明しているというのと通じるように思える*4。例えばナポレオンによる義勇軍や、Googleのコンピュータサイエンティストの好待遇での採用を連想した。

ほかいくつか気になったところを引用してみる。

軍閥について

国司の任を終えた皇族・貴族が地方に土着して国司の仕事を妨げることが問題になった。この土着した皇族・貴族のことを 前司 浪人 といい、彼らの末裔からのちの大武士団が生まれてくることになる。 *5

群盗を鎮圧するため、東国の国司たちは 蝦夷 から乗馬術を学んで軍団を再建・強化するとともに、群盗化した富豪層の一部を懐柔して軍団のなかに取り込んだ。そのうち国司の四年の任期を終えても都に帰らず、大勢の従者を抱えて関東の未開の荒野を 田畠 に開発し、そこに土着する貴族も現われた。その代表が九世紀末に上総介(上総国の実質的な長官)となり、任期後に土着した平高望だ。 *6

中世にどうやって各地を支配していたのかと思ったけれど、実際は軍閥のようなものも生まれていた様子。とはいえ、ほかの多くの地域では遠地でもつつがなく租税が納められていた時期が長かったようで現地の農民目線でその強制力がなんだったのかは少し気になった。荘官の武力なのか、お上のルールに従う文化なのか道徳的ななにかなのか。

制度について

中世の荘園では農業の集約化も進んだ。山野から刈り取った草木や、それを焼いた灰を肥料として田畠に敷き込む刈敷が使われた。これは古くから行われてきた方法ではあるが、領域型荘園の成立によって荘民による山野の占有権が明確になり、草木の利用も促進されたと考えられる。百姓が牛馬を飼うことが一般化すると、その 糞尿 や敷わらを堆積して腐らせた 厩肥 も用いられるようになり、二毛作により低下した地力の回復に役立った。 *7

中世荘園は耕地と山野を含めた領域を囲い込み、領主が自らの責任で荘園の領域を自由に開発・経営し、その結果を引き受けた結果、山野の資源の活用も含めた農業生産の集約化が進んだ。 *8

集約や管理によってだけでなく、権利が明確になったことで農法の発展もあったというのはおもしろい。

鎌倉時代後期からは水田の裏作として麦を栽培する水田二毛作が行われるようになった。裏作の麦に年貢をかけるのを禁じた鎌倉幕府の政策もあって二毛作は普及し、一五世紀には稲・蕎麦・麦の三毛作も行われていた。 *9

これは、飢饉対策という意味もあるけれど利益になる方向に発展していくのも制度と技術の共進化のひとつといっていいんじゃないかな。

国司が免田を認可した理由は大きく分けて三つあり、第一には開発者へのインセンティブとして新開田( 治田 という) にかかる税の減免、第二には国司が貴族や寺社などに納める義務がある物品の割当て、第三には貴族や寺社の仕事にたずさわる 寄人 の田地の税の減免だ。 *10

優遇制度によって地域の開発が振興するというのは現代の産業振興にも通じる。そして、これで力をつけた国司の一部が軍閥化することも・・・

摂関政治の時代の地方は不安定な競争社会で、国司が税の減免を 餌 に荒廃地の開発を競わせた結果、田堵や私領主が耕地をわざと荒廃させ、その再開発で税の減免を求めるような本末転倒な事例も出ていた。 *11

そして制度がハックされるのも現代と同じ・・・。制度設計は難しい。 また、環境の変化によっても荘園経営は影響を受けている。たとえば、中国から銅銭が大量に導入された結果、年貢も代銭納化して、これによって、荘官・金融業・手工業を兼ねて富を生み出す、これまでになかったビジネスモデルが生まれたというのも興味深い。

組織外の人員を代官に登用することは、荘園領主にとって荘園経営の「外注」だった。外注化は担い手の集約でもあり、五山派禅寺の東班衆のような荘園経営専門のコンサルタント集団が生まれ、金融業と荘園経営との相乗効果で土倉や酒屋は巨額の利益を上げた。   *12

このように、状況の変化がビジネスチャンスにもつながっている。

荘園は経営や支配の枠組みとしての実態を失い、荘園の名称もいつしか地域から消え、かわりに村や、村の連合である郷が地域の枠組みになっていった。これが近世に引き継がれ、村が年貢の納入を請け負う村請制が形成されることになった *13

これも自立のひとつではあるのかも。

その他

荘園の研究史自体も興味深い。

一九七〇年代までの荘園研究に問題がなかったわけではない。階級闘争による社会の進歩を説いたマルクス主義歴史学は、在地領主である武家を革命勢力と位置づけ、貴族や寺社が持つ荘園を侵略して封建制社会を形成する道筋を描いた。またマルクスの歴史の発展段階によると中世は農奴制社会のはずなので、日本の中世に土地に緊縛された西欧的な農奴を探し求めた。 *14

冒頭にあったこの説では、高い知性をもって訓練を受けた人文学者であってもその時代の固定観念に引きずられるということがわかる。

畠作も平安時代と同じく、穀物では麦をはじめ蕎麦・大豆・小豆・大角豆・粟・黍・稗 などが栽培された。蔬菜類では芋・胡麻・牛蒡・胡瓜・韮・葱・えんどう、手工業産品の原材料として、 燈 明油の原料の荏胡麻、畳や蓆を作る藺草や染料にする紅花も栽培された。 *15

日本古来の野菜が並んでいて嬉しい。農民はどういう食生活もすけてみえる(実際はどうだったんだろうか)。

また、本書では文献だけでなく古気候学の知見も活かされているというのも興味深い。学際的ですごい。

九世紀前半までは乾燥気味で安定していたが、九世紀後半には湿潤に転じて不安定化し、洪水と 旱魃 が交互に起こった。一〇世紀には一転して乾燥化が進み、一〇世紀半ばの乾燥した気候は一〇〇〇年単位で見ても異例なもので、農村は厳しい試練にみまわれた

こうした気候による苦難は大きな爪痕を残しているけれど、現代に発生するとどうなるだろうか。現在の近代的な農業と食品流通は、せいぜい数十年の安定した気候に最適化されすぎているのように思えるので、たとえば大噴火などの気候変動にどれくらい影響を受けるかはちょっとおそろしい。

そんなこんなで、荘園というものから、農業社会の成り立ち(の一部)や制度設計について楽しく学べる良書でした。みんな読みましょう。

*1:この無理やりなまとめ方について、正確ではないよ、という研究者の方の声も聞こえてきそうだけれど、明文化されているかどうかに関わらず土地についての制度の変遷が歴史の重要な要素というのは同意していただけるのでは、と思う。

*2:文庫版p437

*3:p54

*4:もちろん十分条件ではないし、必要条件でもないけれど

*5:p35

*6:p65

*7:p144

*8:p267

*9:p144

*10:p55

*11:p74

*12:p234

*13:p260

*14:p5

*15:p144

技術オタクのビル・ゲイツの「地球の未来のため僕が決断したこと」はポジティブな気候変動対策本

「地球の未来のため僕が決断したこと 気候大災害は防げる」(2021, ビル・ゲイツ)を読みました。

みなさま知っての通り、ビル・ゲイツMicrosoft の創業者で世界的お金持ちでいろいろ投資とか慈善事業もやっているんですが、その根っこはとびきり賢い技術オタクです。その稀有な人物だからこその本でなかなか前向きでおもしろい。

これまでの自分の理解では、この百数十年の間で地球温暖化は進行しているし、その多くは人類の活動による温室効果ガスによるものではある。けれど、人々が生活している以上、これを大きく減らすのは難しいのでは、と大きな問題から目をそらしていました。そして、なんとなくプラ製品の使用を減らしたり肉食の頻度を減らすくらいだったんだけれど、本書ではものごとを整理して解決のために取り組むべき問題を分解している。

本書の大きな特徴は、考える枠として、現在の510億トン/年の二酸化炭素輩出を実質ゼロにすることを大目標として掲げていること*1。そして、現在は各分野がその内訳のどれくらいを占めているのかと分解し、ある技術や施策はこれをどれくらい削減できうるかで(人類が)投資する価値を考えているという点。

本書では温室効果ガスの排出源を大きく5つに分類している。

  • ものをつくる(セメント・鋼鉄・プラスティック) 31%
  • 電気を使う 27%
  • ものを育てる 19%
  • 移動する 16%
  • 冷やしたり温めたりする 7%

自分が知らず驚いたものもいくつかあるけれど、たとえば、自動車は移動するのなかの半分にすぎず、鋼鉄とセメントの製造は、それだけで全排出量の約10パーセントを占めるというのは、B2B の大きさをみえていなかった。 こうして、目立つところだけではなく、分解してそれぞれ考えるのはソフトウェア工学での、分割統治法的な考え方なように思う。

さらに、イノベーション観には他の領域でも通用する学びがある。

現在僕たちが気候変動に対処するために必要なのは、さまざまな 学問分野 に正しい道へと導いてもらえるようにする方法である。  エネルギーでもソフトウェアでも、その他ほぼどんな仕事でも、厳密に技術だけの問題としてイノベーションを考えるのはまちがっている。イノベーションは、新しい機械や工程を考えることだけではない。新しい発明に命を吹きこんで世界規模で展開するのを手助けするビジネス・モデル、サプライ・チェーン、市場、政策の新手法を考えることでもある。イノベーションは新しい発明品のことであるのと同時に、物事の新しいやり方のことでもある。

また、ビル・ゲイツはもともと貧困国の慈善活動をしていた流れで地球温暖化に触れたということもあって、温暖化対策をしつつも貧困国の生活を気にしているというのがよいし、この気候変動対策はビジネス機会でもあるという視点もおもしろい。壮大なソーシャルエコノミー。

ものごとは単純ではないけれど特に印象深いことをいくつかとりあげてみる。まず、

化石燃料があらゆるところで使われているのには、もっともな理由がある。とても安いのだ。〝石油はソフトドリンクよりも安い〟といわれる。

これによって化石燃料は発電や動力としてさまざまなところで使われ続けている。 発電について、自然エネルギーもさまざま検討されているけれど、有力なものはすくない。 たとえば、風力や太陽光やバッテリーでは不十分。風はいつも吹いているわけではなく、太陽はいつも照っているわけではなくて、都市で必要とされる量のエネルギーを蓄えておける安価なバッテリーが開発される見込みもない。

同じ重さで比べると、いま手にはいる最高性能のリチウムイオン電池に詰めこめるエネルギーは、ガソリンの三五分の一 運がよければ、バッテリーのエネルギー密度はいまの三倍まで上がる可能性がある。しかしその場合でも、ガソリンやジェット燃料の一二分の一の密度にしかならない。

地熱についてはすなわち一平方メートルあたりで得られるエネルギーの量がかなり低いとしているし、水素はまず電気を使って水素をつくり、のちにその水素を使って電気をつくるためバッテリーに直接電気を蓄えるより効率が落ちるとしている。

自分としては気候変動だけではなく、人類存続のためにも有限の化石燃料は残しておきたいけれど難しい。 原子力発電については、核融合が本命だけれどまだできることがあるとはしている。

重要なのは、どこか特定の企業が核分裂核融合に必要な他に類を見ないブレークスルーを起こすことではない。最も重要なのは、世界がふたたび原子力エネルギー分野の進歩に真剣に取り組むことだ。無視するにはあまりにも有望な分野だから。

このあたりは「エネルギーをめぐる旅」でも触れられていたけれていた。 dai.hateblo.jp

本書からなるほどと思えたことは、現行の手段と、温室効果ガス排出のない手段を価格差で比べることで技術の市場化をする方法。

化石燃料の価格には環境破壊のコストが反映されていないため、ほかの手段よりも安く感じられる。追加でかかるこのような費用を、〝グリーン・プレミアム〟と呼んでいる

たとえば、車を所有するすべてのコストについては、走行距離一マイルあたり電気自動車のボルトはガソリンを燃やす自動車のマリブよりも10セント高くつくそうで、年間12,000マイル運転するのなら、1年あたり1200ドルのプレミアム、とする。

そしてこの概念によって、いくつかの選択肢がある場合はグリーン・プレミアムが低いかまったくないものを展開するべきとする。こうしたソリューションがすでにあるのに用いられていないのならコストが障壁となっているわけではないということで、時代遅れの公共政策や認識不足など、ほかの理由によって普及が阻まれているとしている。そして、研究開発資金、初期投資家、優秀な発明家はグリーン・プレミアムが高すぎるところに集中するべきだという。その領域こそが、環境にやさしい選択肢にコストがかかって脱炭素を推進できていないところであり、それを手頃な価格で提供できるようにする新しい技術、企業、製品がはいりこむ余地がある。

あとおもしろかったところ

僕は、気候変動についての理想的なメッセンジャーとはいえない。世界には、壮大な考えを抱いてほかの人にやるべきことを指図したり、どんな問題でも技術で解決できると思いこんでいたりする金持ちがすでにたくさんいる。それに僕は大きな家を何軒ももっていて、自家用飛行機で移動しているし、実のところ気候変動会議に出席するときも自家用機でパリに飛んだ。こんな僕が環境について人に講釈を垂れることなどできるのだろうか。

自己批判よい。排出権を購入したり、バイオジェット燃料を使うなどしててゲイツ家ではネットゼロにしているらしい。

ほか、さまざまな論点について触れられているけれど、特に自分の関心のある農業についていくつかだけ拾ってみる。

世界中でおよそ一〇億頭の牛が牛肉と乳製品のために育てられている。その牛たちが一年間にげっぷやおならで出すメタンには、二酸化炭素二〇億トンと同じ温暖化効果があり、これは地球上の全排出量の約四パーセントにあたる。

かといって、食文化もあり食肉を減らすのは難しい。代替肉などの普及も意味がある。

窒素をつくる微生物は、その過程で多くのエネルギーを使う。あまりにもたくさん使うので、微生物は進化して、絶対に必要なときしか窒素をつくらなくなった。つまり周囲の土壌に窒素がないときだ。窒素がじゅうぶんあるのを感知したらつくるのをやめ、エネルギーをほかに使えるようにする。したがって合成肥料を加えると、土のなかの天然生物は窒素を感じとり、自分でそれをつくるのをやめてしまうのだ。  合成肥料には、ほかにもマイナス面がある。それを製造するにはアンモニアをつくらなければならず、その工程で必要になる熱は天然ガスを燃やしてつくるので、温室効果ガスが出るのだ。それに、合成肥料を工場から保管用の倉庫(僕がタンザニアで訪れたような場所)に運び、最終的に使用される農場に輸送するトラックはガソリンで動く。最後に、肥料を土に入れたあと、肥料に含まれる窒素の多くは植物に吸収されない。世界全体で作物に吸収されるのは、畑にまかれた窒素の半分未満である。残りは地下水や地表水に流出して汚染を引き起こすか、亜酸化窒素として空気中に漏れ出る。

合成肥料の難しさ。いっぽうで堆肥も温室効果ガスを輩出はするのでその比較は気になる。 ほかの技術についても比較されているので、これからニュースをみたり、政党のマニフェストを判断するうえでも参考になると思う。

いっぽうで、各事実から、温室効果ガス排出を減らすある方向性については、まったく触れられていなかった。 いろいろ陰謀論のタネになりがちなビル・ゲイツからはとても言えないことで、自分も表現する方法をもっていないけれど、どうするべきなんだろうか・・・

本記事を書いてから、ゲイツはいま何してるかなと調べたらなんと日本にいて、目黒寄生虫館にいてびっくりした。

関連記事) 農作物の価格もなー、なんとかならないかなー、と思って書いた記事 dai.hateblo.jp

*1:輩出をゼロにするのではなく、回収する分と合わせて実質ゼロにするということ

農作物の価格について、あるいはペティ=クラークの法則の行き詰まり

今月、尊敬するお二人が続けて新刊を出すことを知った。

1つは農業研究者の篠原信先生による「そのとき、日本は何人養える-食料安全保障から考える社会のしくみ」

もう一つは茨城県の生産者でもある久松達央さんの「農家はもっと減っていい 農業の「常識」はウソだらけ 」

お二人とも直接の知り合いではないけれど、共通の知り合いがいたり、ご著書を通して卓見を伺ったり、とある Facebook グループで活発に投稿されているのをみたりしていた*1

一見すると逆の狙いのようにも見えてしまうかもしれないけれど、どちらの本も通底するものがあるはず。そして、これまで自分が仕事などで生産者さんたちと接する中で考えていた問題意識と近そうで楽しみ。 それぞれ読んで「答え合わせ」をするまえにタイトルから連想される自分の考えを書いてみる。

農業問題 - 目標と現状

農業に関係する問題は複雑で、さまざまな因子が絡んでいる。 全部を整理して語ることは自分にはとてもできないので、まあまあ多くの人に同意してもらえる大きな目標のひとつと、それにまつわる誤解されがちな話題について書いてみる。

まず目指される目標のひとつは、「長期的に食糧供給を安定させること」として多くの方も方向性については納得してもらえると思う。食糧不足からなる飢饉によって、これまでも多くの人が亡くなってきたし、文明も滅びてきた*2。人類が磨き上げてきた慣行農業の生産力はまさにこのためだし、有機農業の意義も、低インプットで環境負荷を小さくして持続可能な農業を目指すという点で目指すものは同じはず*3。これを避けて人類社会を持続させたいというのは多くの人もわかってもらえると思う。少なくとも自身や子どもたちが生きている間は食うに困りたくはない。

この目標のレベルや、手段についてはさまざまな議論があるけれど、そのために主食の生産のうちのある程度を国内で安定して続けられるようにするというのも原理主義的な新自由主義者でもなければ合意できると思う。

ただ、ここからは議論が難しい。まず、しばしば食糧自給率が低いことが問題だ、と言われるけれど、これを指標とすることは好ましくはない。これは、カロリーベースであっても金額ベースであっても、家畜の飼料や、作物の生産に必要な農薬や肥料の輸入分は計算に入っていないという批判や高価なものを海外から輸入している分もあるという問題があるから。 自給率をあげるには牛肉の輸入量を減らすことが手っ取り早いけれど(実現可能性はさておき)、それでめでたしとはならない。

とにかくも食糧供給について、現実を把握するために具体的な数字をみていく。まず、農業従事者は2015年から2022年までで30%、52万人も減っていて、さらに70%が65歳以上となっている。いかに高齢化社会とはいえ、産業として厳しいと感じると思う。
農林水産省 - 農業労働力に関する統計

そして、生産の基盤である土地についてみていくと、耕作面積はピーク時から25%以上減っている。
農林水産省 - 荒廃農地の現状と対策について.pdf

これだけ高齢化もあって、農地も減っていると食糧供給は大丈夫か、と心配になるけれど、問題は食糧供給だけではない。 「農業の多面的機能」という、耳慣れないだろう言葉によっても説明されるように、農業には食糧生産以外のいろんな機能がある(いわゆる外部経済というやつです)。

わかりやすいのは、農地の維持が水害対策になったり地域の文化をはぐくんだり里山を維持することで生物多様性を維持していたりするというもの(ちなみにあらゆる農業は環境に悪影響を与える側面もあります)。

詳しくはこちら(農林水産省 - 農業・農村の有する多面的機能)。めちゃめちゃリンクのあるけれど大人向けパンフレットがおすすめ。写真が強い。

もちろん、この多面的機能だけではなく食糧供給こそ重要というのもわかるけれど、国内生産が増えることでこれら多面的機能も維持されるということで、ここからは本丸の食糧生産にフォーカスしていく。

この生産減少の原因はさまざまあるけれど、生産物の価格が大きな要素だと思っている。

農作物の価格をめぐって

たとえば米についてみてみると、このデフレ時代とは言え、米価はこの30年で半分程度まで下がってきているし、今年はさらにやばそう。
農林水産省 - 米をめぐる関係資料.pdf 早場米、宮崎産が3年連続下落 小売需要伸び悩む: 日本経済新聞

米だけでもなく青果も似たり寄ったり。スーパーでは、たいてい一番最初のエリアにある野菜は、客寄せとして安売りしていて原価割れしているものもあるという*4

これだけ価格が減っていると、同じだけの量をつくっても手取りは減るし経営は厳しい。 逆に、もし価格が一時的にではなく定常的に向上すれば、農業で食っていきやすくなるということで家業の農業をついだり新しく農業をはじめる人もでてくるだろう。

本当にそうなるかどうかはさておき、価格と供給について考えていく際に、悩ましいフードロス問題についても触れておく。

自分も、ごはんを残してはいけないという規範を親や社会から埋め込まれているので、廃棄される食品や食べ残しに忌避感は持つし、資源の無駄遣いだし環境負荷もあるよな~、とは思うけれど、かといってフードロスがなくなるということは農作物の消費・需要が減るということで、より価格は下がってしまうし、つまり生産者の手取りも減ってしまう。これについてはジレンマを感じていて、身近なフードロス削減には取り組むけれど、統計として現れるフードロスを直視できないでいる。

さて、フードロス問題に目をつむって、価格について考える。生産が減っていくと、農作物の価格は本当にあがるのだろうか。 短期的な相場の上下はあるだろうにせよ、長期的には経済発展によって農業部門は縮小していくというのは、古今東西多くの社会で観察され、ペティ=クラークの法則としても知られている。 これは、経済発展の速度差と説明されるけれど、さらに、マーケットからは生産性の改善が求められ、効率化をすすめることで生産量が増えて価格が下がってしまうという現象もある。

(この価格競争については、先月お亡くなりになった佐賀の百姓である山下惣一さんの名著「いま、米について」で生産者視点での苦しい状況が描かれています。古い本ですが、米以外の農業や補助金の問題についても今なお色あせていないのでみなさん買って読んでください。kindle にあります)

ただ、この今後の経済発展も見込めない日本で(人口減少以上のスピードで)生産量が減っていくとどうなるかはわからない。ミクロ経済学の最初に学ぶこととして、需要より相対的に供給が減ることで、価格は上がるとなっている。石黒耀先生による傑作カタストロフSF、「死都日本」では以下の一文があった。

食糧は10パーセント不足すると2倍、20パーセント不足すると3倍の価格になると言われる。1973年に日本で大豆が10パーセント不足した時は2.5倍に跳ね上がった。

農業経済学の分野では、農作物の価格弾力性が1より小さいことから生産量を需要と近いと仮定すると、価格変化率が生産量変化率より大きいと説明されている*5

生産量が減り続けると、価格も安定的に上がる・・・と、期待してもいいかもしれない。 そうすると、資材や人件費も高騰している中で、生産者の経営も改善するだろうし、そうなると新規参入者の増加と定着も改善するはず。

もちろんこれは楽観的な見方で、国内の所得は低迷しているなかでの買い手優位な取引関係のため値段は抑え続けられるかもしれないし、これまで鮮度の都合や国産志向で主流にはなっていなかった農作物の輸入が進むことで価格は変わらず、引き続き離農者は増えて国内生産も下がり続けるかもはしれない。

それに、もし価格があがったとしても、それは消費者の生活を直撃することになるので、アメリカのように野菜は贅沢で、ファーストフードが相対的により安価になって貧困者の肥満(と、富裕層からの軽蔑)が社会問題化することもありえる。

このあたりにジレンマを感じつつも、いま日本が直面している生産者の高齢化や耕作放棄地の増加は、供給量の適性化という意味で必ずしも悪いことだけではないのではないか、というのが現在の自分の考え。

いっぽう、農政としては小売価格の向上のための輸入抑止とか価格維持などがんばっていただければ・・・と思っています。

気候変動について

と、・・・お金のことばかり書いて文章を締めそうになったので、急いで気候変動と農業についても今の考えを書いておきます。

まず、化学肥料生産に使われる多量の化石燃料や畜産(牛のゲップや排泄物のメタン)は温室効果ガス排出における大きなシェアをしめていて問題。

前者について、長期的にはクリーンで安定した発電方法、つまり核融合を発明しないといけないように思われる(太陽光発電風力発電も補助的に意義はあるけれど面積当たりの発電量が低いのと、バッテリーの技術革新も大きく期待できず主力にはなれない)。畜産について、自分も食肉文化は好きだけれど、世界全体で消費を減らしていくようにしないといけないだろう。ただ市場経済のもとでどうやるかはまったくわからない(価格がカギだとは思う)。

このあたり、読みやすいものとして、みんな大好きビル・ゲイツという、巨大企業の創業者にして慈善事業化にして技術オタクという稀有な人間が書いた「地球の未来のため僕が決断したこと」とか「エネルギーをめぐる旅」があっておすすめです。

そして、これらの気候変動についてゲイツが思いついてはいたはずだけれど、著書で微塵もにおわせていない解決策が浮かんで暗澹たる気持ちになってしまう・・・。 これについては、文章で妥当に表現する表現力をもっていないので悪しからず。

お二人の新著でなにかヒントが見つかるのを楽しみにしています。

dai.hateblo.jp

おことわり

自分は、農業の流通や環境負荷、生産者の経営あたりに関心があり、生産者の受注・販売管理の負荷を下げるためにファーモという販売管理ソフトを開発したりしています。 そのつながりで多くの生産者さんに接したことが自分の考えに影響をもたらしていそうですが、本記事は自分個人の意見です。

本記事やファーモについてご関心のある方、お気軽にお声かけくださいませ!

ファーモ | 農家のための無料で使える販売管理

*1:「キレイゴトぬきの農業論」はおすすめです。

*2:「人類と気候の10万年史」によると、栄華を誇ったマヤ文明も、9年の間に6回もの干ばつが襲う時期があったことが原因になっているという推測があるそうです。

*3:有機農業の基本理念は、有機農業の推進に関する法律の第三条に明記されています

有機農業の推進は、農業の持続的な発展及び環境と調和のとれた農業生産の確保が重要 であり、有機農業が農業の自然循環機能(農業生産活動が自然界における生物を介在する物質 の循環に依存し、かつ、これを促進する機能をいう。)を大きく増進し、かつ、農業生産に由 来する環境への負荷を低減するものであることにかんがみ、農業者が容易にこれに従事するこ とができるようにすることを旨として、行われなければならない。

https://www.maff.go.jp/j/seisan/kankyo/yuuki/attach/pdf/sesaku-1.pdf

*4:八百屋を経営する尊敬する友人や、スーパーに勤めていた親戚も同じことを言っていた

*5:例えば、荏開津先生の「農業経済学」。ただ、というもの。ただ、商品の価格弾力性を厳密に計算はできないので価格変化率の予測には使えないし、生産量と需要量を近似しているという仮定はちょっと乱暴すぎでは、と思ったりしています