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「異常【アノマリー】」感想。いい読書体験だった

SF小説「異常【アノマリー】」を面白く読めたので感想文を書きます。 (末尾にスペースをあけてネタバレ感想を書いています。そこまではネタバレなし)

まず、その異様な表紙の写真に目が行く。荒野にいる2人の赤い服を着た黒人女性のようだけれどよくみると顔が、ない。AIがつくった失敗画像のようにもみえるけれど、この不穏で不気味な表紙から興味を掻き立てられて手に取った。

読んでみると、殺し屋や歌手、弁護士、子どもなど住んでいる地域も職業もばらばらな人たちのそれぞれの生活の様子が描かれている。ある種の群像劇。どこで交わるのかと思うと、数か月前に同じ飛行機にのっていたことが少しずつ示される・・・。

そこまでの描き方もうまいし、この事象について明らかになる場面では驚いてさらにページをめくる手がすすんでしまう。読書体験としてたいへんよかった。もし、ある事象が起きたら、というまさにスペキュレイティブ・フィクション/思弁小説としてのSFの傑作だと思う。 その事象への人類の対応を考えるために、科学者を結集させたり、各世界宗教の代表者を集めて議論させるところもおもしろい。

ただ、読書体験としてはよかったけれど、読み終わってから振り返るとちょっとした物足りなさも感じる。まず、創作にしては珍しいことにFBIが組織として善良で有能すぎることと、インパクトのある表紙と内容があまり関係なかったこと。

FBIが有能だったということでこの事象が起きる中である程度穏健なシナリオだったともいえるし、それによってフォーカスされるものも魅力的ではあるのだけれど、自分の下心としてはもっと混沌がみてみたかった。たとえば事なかれ主義が蔓延した日本で発生していたらどうなるか・・・と考えてみるとちょっとおもしろいかも。

著者のエルヴェ・ル・テリエはフランス人で数学者でもあって実験小説もいろいろ書いているらしい。多才ですごい。

ちょっと脱線します。本作のタイトルから連想したものに木城ゆきとの傑作SFマンガ「銃夢LastOrder」に登場した「アノーマリー/例外者」という怪物があります。これは自己増殖ナノマシンの暴走でナノマシンの海と化してしまった水星で発生した、人間をカリカチュアしたような造形をしている疑似生物で、行動原理は不明だったけれど、ある人物はそれを人間を模倣し暴力によってコミュニケーションをとろうとしているのではないか、と推測していました。そのときのセリフを引用します。

彼ら・・・とりあえず「水銀族(メルクリオン)」と呼ぶが、彼らは人類とコミュニケーションをとろうとしているのかもしれない。
非言語的アプローチが可能なZOTT*1という場に「アノーマリー」という大使を送り込み我々の姿形・・・そして本能的な行動を模倣させることによって・・・!!

だとするならば
科学者よりも・・・
政治家よりも・・・
軍人よりも・・・
宗教家よりも・・・

空手家!!彼らほどこの任務に適した人種はいまい!!

こうして超電磁空手の使い手、刀耳とアノーマリーが対決します。空手の「無用の術」、「愚」を体現していてたいへんおもしろかったのでSFマンガに抵抗のない方は機会があれば手に取ってみてください。

以上、アノマリーと名前が一致しているだけなんですが、印象深かったので共有しました。

さて、以下に本作のネタバレ感想












はい。ここからネタバレです。 本作で描かれる異常な状況とは、ある日、突然の嵐のなかから3か月前に着陸したのとまったく同じ飛行機が、パイロットも乗客もその3か月前の状態のままで現れる、というもの。これを管制が検知して、こうした異常事態向けに作成された手順(そんなの起こるわけがないだろう、ということで制作したSF好き科学者たちによってパロディだらけでつくられていた)に基づいて対応される。そして、複製されたクローンたちを社会がどう受け止めるか、また社会復帰できるように調整されていくなかで起きる混乱と社会の衝撃を、さまざまな人々の群像劇とすることで描いていくというもの。

人の手にも異星人の手にもよらない自然現象的なこの異常事態をタネに、人々の葛藤を描くというのが主眼な気がする。 だれかの超能力や発明、異星人をタネにする作品とは違って、人が主体だし、中盤になるまでこの事象が読者にも明かされないことでの不穏さを感じるはらはらするような読書体験だった。

ただ、この事象を検知してすぐに飛行機を隔離して個別にオリジナルを追跡して身分を保証しようとするアメリカとFBIが有能・善良すぎて泣ける。もし現実に起きたら、着陸時に飛行機のぐだぐだはありつつもなし崩し的に空港外に出ることになって混乱してしまいそう。その混乱を読みたかったようにも思う。

もしそうなっていたらどういう展開になっていただろう。 飛行機の中にいるうちに3か月タイムスリップしたと錯覚するだろうし、そうすると最初はオリジナルが定刻に到着していて3か月も生活しているなどとは思わないだろう。けれど、スマートフォンで見るメールやSNSなどでタイムスリップしていないオリジナルがいることにも気づくか、飛行機でトラブルにあったと家族や職場に電話して狂言と疑われて混乱のもととなるかもしれない。単身者だと家で鉢合わせになることで発覚するかもしれない(SIMがクローンされることで電話がどうなるかはわからないけど)。そうしたときに、個別の案件となってしまうと行政も腰が重そうでアイデンティティクライシスが起きそうだ。

そのままだと暗い話になりそうだけれど、世の中に、高度な専門家が2人いることになることではじめて解決できる問題があったり、家庭のトラブルみたいなものを2人に分裂することで穏便にできる場面を描けると、おもしろいかも。うーん・・・。

いくつか気になった文章を引用しておきます。

彼女がアンドレに伝えたいのは、彼女の柔らかい肌、すらりと細い脚、血の気のない唇、彼らが彼女の美と呼ぶもの、さらには彼女と付き合うことで味わえるはずの愉悦に心を躍らせて彼女を欲しがり、彼女のなかにそうした要素しか見ようとしない例の男たちすべてに、彼女がうんざりしているということだ。ハンターとして近づいてくる男たちに、狩りの獲物をこれみよがしに壁に掲げるように彼女を飾りものにすることを夢見ている男たちに、うんざりしきっているということだ。

魅力的で男をひきつけてしまうバツイチ子持ちのリュシーと、彼女への恋に落ちてしまう高名な建築家アンドレの関係性は危うさするものがある。アンドレの不安と、どうしようもない状況。サガンの「悲しみよこんにちは」を連想した。

「トト、ここはなんだか……」  声は待つ、じっと待つ。エイドリアンはうつろな声で言う。 「……もうカンザスじゃないみたい」

オズの魔法使いのセリフが合言葉になっている。

ベン・スライニーの仕事初めの日だ。 アメリカ連邦航空局 本土管制本部長に就いたばかりの彼は、歓迎会のコーヒーとドーナツを腹に収めた二時間後、四千二百機の飛行機を地上にとどめ置くという前代未聞の決断をひとりで下すことになる。人生にはそんな日もあるのだ。

これが実話だったということに驚いた。911のときの管制本部長。

「招集してほしい科学者のリストを三十分後にお渡しします」とティナ・ワン。「哲学者も二、三人必要です」 「えっ? それはなぜだ?」シルヴェリアがたずねる。 「なぜって、なぜ科学者だけがいつも夜なべ仕事をしなきゃならないんです?」

昨今の社会学の一部が学問の体をなしていないとするSNSでの批判を思い起こしてしまった。でもこういう倫理の問題でサイエンスコミュニケーションするためにも必要だよな~、と思いました。日本だとこういう枠のひと、誰なんでしょうね。大学で哲学研究している人とか、評論家ではないような気もする。

「〝エルピス〟──希望ですよ。これこそ悪のなかでももっとも始末の悪いものです。希望がわたしたちに行動を起こすことを禁じ、希望が人間の不幸を長引かせるのです。だってわたしたちは反証がそろっているにもかかわらず、〝なんとかなるさ〟と考えてしまうのですからね。〝あらざるべきこと、起こり得ず〟の論法ですよ。ある見解を採用する際にわたしたちが真に自問すべきは、〝この見解に立つのは単に自分にとって都合がいいからではないか、これを採用すれば自分にどんなメリットがあるのか?〟という問いです」

これはことなかれ主義の本質だよな~。そしてこの道徳感情によって思い込みが発生して冤罪もうまれる。

真実とは、それが錯覚であることを忘れられた錯覚である

ニーチェの言葉らしい。虚無主義にすぎる・・・。

*1:太陽系で大国の権力が確立したなかでのガス抜きのような興行

読書メモ「入門 東南アジア近現代史」(岩崎育夫)

東南アジアは海外旅行としても身近で、エスニックでおいしい食事も人気があるし東南アジアから日本に移住しているひとも増えているし、肌感覚でも距離が近づいているようにも感じる。 けれど、第2次世界大戦では日本はそれらの国を蹂躙したという歴史的な経緯もあるし一部の技能実習生には過酷な待遇もあって難しい関係でもあるし、もう少し知っておきたいという思いで手に取ってみた。

歴史の本としては現在の国関係にフォーカスしすぎな気もするけれど、それぞれの国について歴史的な背景や文化をわかりやすくまとめていてよかった。

いろいろおもしろいところがあったけれど、特に印象深かった植民地、日本との関係、独立について読書メモを書いています。

植民地

タイ*1を除く東南アジアの国はなんらかの形で欧米の植民地になっているけれど、どれも悲惨な歴史。インドネシアの王位継承争いに介入して領土を広げたオランダなど手口も汚い。

ヨーロッパ諸国が自国の官僚制や統治制度を模して創った植民地国家では、土着国家の支配者は実権を失ったものの、王制が廃止されたのではなく、多くの国で形式的ながらも残されている*2。そしてフランスはインドシナ植民地のラオスカンボジアを統治する下級役人としてベトナム人を利用するなど間接統治がなされ、現代にも尾を引いている。

一八五〇年のインドネシア植民地からの収入は、オランダ本国政府の収入の一九%に過ぎなかったが、一八五一~六〇年には三二%にも上ったのである。この膨大な利益によりオランダ本国の財政収支が改善されただけでなく、産業革命の原資にもなった。

いまのヨーロッパの繁栄にも東南アジアからの収奪がつながっているといえそう。

日本と東南アジア

シンガポール北東部のヨー・チューカン通りを入った静かな住宅街の一角に日本人墓地がある。片隅には二〇世紀初めに、大半が二〇歳前後で亡くなった四〇〇人ほどの若い女性の共同墓碑がある。彼女たちは、「からゆきさん」(唐行きさん。当時の日本は唐=外国とみていたので、外国に行った人の意味) と呼ばれた売春婦の人びと

これは、10年前に書いたグローバル女衒の話にも近い

dai.hateblo.jp

そして時代が飛んで太平洋戦争。日本は東南アジアを占領すると*3、軍政を敷いて住民を厳しく管理したなかで3つの行為が現在も記憶され批判されている。第一がシンガポールの華僑虐殺で、犠牲者は5千-5万人と言われている。第二がフィリピンでの戦争捕虜に対する過酷な扱いで数千人の死者を出したバアーン死の行進。第三が、タイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道建設労働者の強制徴用がある。これらは、過去の大きな過ちとして記憶されていく必要がある。

いっぽうで、一次資源を確保するために東南アジアを占領したのはヨーロッパ諸国の植民地化と同一だけれど、表向きは東南アジアを占領したのは独立を支援するためであるとして、東南アジアのいくつかの国を「独立」させたこと*4はある。ただ、ヴィシー政権のような傀儡ではあるので称賛されることではない。また1943年にジャワ島で、日本が主導してジャワ防衛義勇軍をつくるなど軍を創設したこともある。日本の敗戦後、インドネシアではインドネシア軍の中核として対オランダ独立戦争を戦ったし、インドネシアスハルトミャンマーのクーデタで実権を握ったネ・ウィンなど日本が育成した軍人のなかにはは後に国家指導者になった者もいるなど歴史の難しさがある。 日本だと、第2次世界大戦の敗戦によって戦後と戦前が分かれ歴史が分断されているように感じてしまいがちだけれど、当然、歴史は途切れなく続いている。

本書ではこうも書かれている。

日本の占領統治が東南アジアの独立に何の意味も持たなかったのではない。日本軍が東南アジアからヨーロッパ勢力を放逐したこと、そして、その後の日本の占領統治がヨーロッパ人以上に過酷だったので、東南アジアの人びとのあいだに外国支配からの脱却、すなわち、独立を渇望させた

独立

第2次世界大戦後の独立もさまざまな経過をたどっている。子どものころに読んでいた本にあったクイズ、世界で一番新しい国は?の答えは2002年の東ティモールだったけれど、多くの国で様々な経過をたどっている。

人種や宗教が混ざったまま、もとの土着国家の領域ではなく植民地国家の領域をベースに独立してしまったことで多くの問題が生まれているようにも思える。いくつか列挙してみる。

マレーシアではマレー人、華人、インド人の民族政党ができて連合党を結成したけれど、そこからマレー人優位をとなえる中央政府シンガポール州政府で対立してシンガポールは追放されるように分離独立した。

タイでも1958年にクーデタで権力を握ったサリット首相は、民族・仏教・国王を基盤にした国民統合を進めたものの、南部のムスリムはこの国民統合理念の枠外の存在だったり。

インドネシアではオランダの独立抑圧行動が続いていたのを国連安全保障理事会がオランダを非難する決議を採択したことで独立。ただ、このときはスマトラ島の大半とジャワ島の約半分を領土にするインドネシア共和国と、それ以外の、オランダ傀儡の15の国からなるインドネシア連邦共和国にするものになっていたなど宗主国の影響は大きい。1946年からフランスと独立戦争をした北ベトナムのその後の経過は知られているように悲惨だった。

カンボジアは、独立後40年ほどのあいだに五回も政治体制と国名が変わったが、混乱した最大の原因は、小国カンボジアベトナム戦争に巻き込まれたことにあったとか。

そしてこれらのプロセスはまだ終わっていない。インドネシア東端、2002年にパプア州に改名されたパプアは、現在も熾烈な分離独立運動が続いているというのは知らなかった。

現在

独立後の開発独裁の経過もおもしろいし、ミャンマーでの軍政復活など民主化も危うい状況ではあるけれど、ひとつ気になったのは都市住民と農村住民の対立。

2006年の1人当たり国民所得は、バンコク首都圏を100とすると、中部タイは40、北部タイは17、東北タイは12、南部タイは28でしかないそうでタイ経済の最大の不安定要因でもあるとのこと。これから人口ボーナス期も終わるなか、どうなっていくでしょうか。

おまけ

ひとつシンガポールでいってみたいところ

マレーシアに移民した中国人で、現地のマレー文化を受け入れた中国人はプラナカン、男性はババ、女性はニョニャと呼ばれる。(中略)日本の家庭料理に似ているニョニャ料理は、筆者の東南アジア料理の好物の一つである。ニョニャ料理の店はシンガポールにもあるが、裕福なプラナカン一族の邸宅だった二階建ての家をレストランに改築したマラッカの店は歴史的雰囲気が漂い、ビールを飲みながら食べた料理は抜群だった

どこだろう、いまもあるのかなあ

その他

過去の記事を見返すと、いくつか東南アジアトピックもあった。

ラオスはルアンパパーンにはまたいってみたい。 dai.hateblo.jp

ベトナムでは「ミス・サイゴン」も。ベトナム戦争はもっと調べないといけない気がしている。 dai.hateblo.jp

カンボジアを舞台にした傑作「ゲームの王国」はおもしろかった。小川哲先生、ご結婚おめでとうございます。 dai.hateblo.jp

*1:タイが植民地化を免れたのは、第一にタイの近代化改革で、明治維新と同じ頃の一八六八年に即位したチュラロンコン国王が植民地化を防ぐために、官僚制の導入や軍隊の創設など中央集権型の近代的国創りに着手したことや、第二に地理的な理由、第三がヨーロッパ諸国がタイのコメ貿易の参入権を獲得したことで植民地にするうまみがへったからだという。

*2:例えば、イギリスは、マレーシアでスルタンが統治する九つの州を存続させたし(今も残っている)、フランスも、ベトナムのグエン国、ラオスのラーンサーン国など

*3:タイは日本の同盟国となり、アメリカとイギリスに宣戦布告をした

*4:1942年8月に反英運動家のバ・モウを国家元首に据えてミャンマー、1943年10月に親日のホセ・ラウレルを大統領に擁立してフィリピン、1945年3月にベトナムのバオダイ皇帝、カンボジアシハヌーク国王、ラオスの国王に独立を宣言させた

「成瀬は天下を取りに行く」(宮島未奈) 近所が舞台でおもしろかった。

中高生を主人公として、大きな事件が起きるわけでも、恋愛模様が描かれるでもない日常を描いた小説なんだけれど、なかなかおもしろかった。

特に、舞台が滋賀県大津市と自分の住んでいる地域でこのブログ名にもついている膳所駅界隈で物語が進むのでかなり身近に感じる。大きな事件はないと書いたけれど、ひとつ、大津西武という地域に愛されてきたデパートの閉店はひとつの軸になっていて、このデパートは大津市育ちの妻も幼少期から通っていて閉店日には当時生後数か月だった子をベビーカーに連れて一周していたので主人公たちと同じ時間・同じ場所にいたということに感慨がある。

おもしろかったので界隈で60年以上住んでいる義母にも渡しました。

ただ、知っている場所がでてきたからおもしろいわけではなく、キャラクターや構成もたっていて読みやすくいい小説だった。特にM1に出場する話での学校祭での一幕は印象的。まったく大津市のことを知らない人が読むとどう思うかは気になるところ。自分が知らない土地のローカルな要素をちりばめたそういう小説を読んでもその要素は覚えていないからふつうの小説に感じてしまうかもはしれない。

よかった一節

「わたしは膳所高校二年の成瀬あかりだ。大津へようこそ」 RPGの村人みたいな口調に違和感を覚える。

スプレッドシート小説家として知られるミネムラ珈琲さんから紹介していただいて読みました。ありがとうございます。

www.minemura-coffee.com

「エンダーのゲーム(オースン・スコット・カード)」読書メモ。現代にも通じる傑作SF

1985年出版で1985年にネビュラ賞、1986年にヒューゴー賞とSFのビッグタイトルを2つとっている傑作。ちょっと前に映画化されたときに気になっていて、積んでいたのをようやく読んだ。

コミュニケーションのとれない異星人バガーに侵略されつつあるなか、指揮官候補として見出された少年少女たちを描いている。そのなかでもっとも期待された主人公エンダーのキャラクターと舞台がユニークでほんとうにおもしろい作品でした。後世に影響をうけた作品もいくつかあって結末を予想できるひともいるかもしれないけれど、それでも傑作。

とくに6歳の少年の葛藤と知性の描き方や指揮官になる前後でのふるまいの違いがよい。 大人と少年の関係、いちばんしたっぱの新規訓練生(ラーンチィ / launchies)だったころと、指揮官になったあとのふるまいの変化は緊張感があって、またメディアと世論についてや教官同士のウィットのある会話もおもしろい。

今読むと、児童心理への懸念はたくさんあるし、親になった今読むととても許されないと思うけれど、非常時の選択として巧妙に描かれていてするするっと読めてしまう。 地球外からの侵略者に立ち向かうという点では、大傑作SF三体とも通じる。三体もこの作品の影響を受けているんだろうか。人類の戦略としての面壁者(ウォール・フェイサー)とも似ているのかも。

作中、メディアを利用して言論で世論操作をこころみるところもあるんだけれどほんとうにインターネット的だし、ポスト・トゥルース的な要素もある。1985年にここまで書けたのかとも驚いだ・・・(冷戦のさなかでプロパガンダ合戦はあったにせよ)

あとITエンジニア向けの紹介として構成管理ツールの Ansible の由来はこの作品のとあるギミックということも触れておきます。

以下ネタバレ感想
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タイトルや映画のPVから、読む前に天才的な少年がゲームのような感覚で戦争を遂行するもの、とは思っていたけれど二枚も三枚も上手だった。どこからゲームか読んでいてわからなかった。

バガーたちとのきたるべき最終決戦のまえの訓練のシミュレーションという形で、これまでの訓練・ゲームの延長としてプレッシャーをかけていたのは巧妙だと思う。これを敵と同じように、位置が離れた距離でも瞬時に通信できるアンシブルというツールを使って、実際の(おそらく有人の)戦闘艦を操作させるというのはすごい。

こうしていたのは人類を背負うということや戦闘艦の人員の命を扱うというプレッシャーから回避させるだけではなく、相手に情けをかけないためというのもおもしろい。勝つためには相手を理解しないといけないけれど、そうすることで相手に共感もしてしまう。

このために現在の軍人では不適当と判断して、実際の戦闘ということを悟られずに戦略を発揮できる人間を発掘するために6歳の子どもに着目していくというのもすさまじい。

実際に、人類に危機が迫ったときに、そういう人権無視での才能発掘はできるだろうか?あるいは、ある種のパーソナリティ障害をもっている人間が才能を発揮して人類を救うストーリーもありえるだろうか、ともぼんやり思いました。

終戦後の、エンダーのふるまいと遍歴も胸に来るものがある。神話的な作品だった。

鳥肌がたつシーンが2か所。エンダーが編隊リーダーたちとはじめて会話するときの「サラーム」、最終決戦時の「思い出して、敵のゲートは下だよ」というビーンのセリフ。この、大きなピンチ・転機でかつての旧友とのやりとりを出すのがうますぎる。

いくつか引用

「コンピュータは、われわれ以上に彼をよくわかっています」 「だが、コンピュータは慈悲の心があることで有名なわけでもないな」 「慈悲深くありたいなら、あなたは修道院へ行かれるべきでしたね」

教官同士のウィットと皮肉にとんだ会話がよい・・・。

敵よりほかに師はいないのだよ。敵以外のだれも、敵がなにをしようとしているかを教えてくれない。敵以外のだれも、どうやって破壊し征服すればいいかを教えてくれない。敵だけが、自分のどこに弱みがあるかを教えてくれる。敵だけが、自分のどこに強みがあるかを教えてくれる。

マオリ族出身の英雄、メイザー・ラッカムもいい。ポリネシア人が重要な役割をもつ創作はじめて触れたかも。

たいてい歴史家たちは、こうした決定的瞬間がいつなのか、原因と結果について屁理屈をこねる。世界が流動的状態にあるとき、適切な場所における適切な声が世界を動かすことができるんだ。たとえばトマス・ペインとベン・フランクリンがそうだ。

令和の今でもそうだろうか。言論の信頼度がだださがりしているからこんなことにはならないかなあ。

ふたり合わせても八本ばかりしか恥毛のない二人のガキにしては、わるくない

ナイス比喩

「ファシズムの教室(田野大輔)」読書メモ。人々はファシズムの暴走を防げるのか

30年ナチスを研究してきたという田野大輔先生の「ファシズムの教室 ーなぜ集団は暴走するのか」(2020)を読みました。

ファシズム全体主義に対しては、自分も、おそらく多くの人も抑圧的で強権的なイメージを持っているけれど、実態は大衆からの支持と大衆による運動が下地にあったと指摘されています。その一部を実際に大学の授業でやって体験してみましょう、という挑戦的な取り組みの記録でもある。

具体的には「ハイル・タノ」と叫ばせて隊列を組ませて学校を一周させたり、「敵」を排除させていく。このやり方には予想通り批判もあったようだけれど、おもしろい取り組み。

アーレントによる「悪の凡庸さ」とか本書でもたびたび言及されるミルグラム実験などを知っていると、ドイツ人が邪悪だからユダヤ人を絶滅させるようにしたのではなく、権威の構造によって善良な人々が残酷な行動をしてしまう、ということはぼんやりわかっていたつもりだけれどそれを体験することで身をもって恐ろしさを知るというのは興味深い。

集団行動がもたらす独特の快楽、参加者がそこに見出す「魅力」に求められる。大勢の人びとが強力な指導者に従って行動するとき、彼らは否応なく集団的熱狂の渦に飲み込まれ、敵や異端者への攻撃に駆り立てられる。ここで重要なのは、その熱狂が思想やイデオロギーにかかわりなく、集団的動物としての人間の本能に直接訴える力をもっていることだ。全員で一緒の動作や発声をくり返すだけで、人間の感情はおのずと高揚し、集団への帰属感や連帯感、外部への敵意が強まる。この単純だが普遍的な感情の動員のメカニズム、それを通じた共同体統合の仕組みを、本書ではファシズムと呼びたい。

これは、どこかで新左翼運動に批判的な立場のひとが著書かなにかで「肩を組んで街中で声を上げるとだれだって高揚する」と書いていたのを連想した(だれだったか失念)。小学校の運動会でも同じだし、国家とかでも同じかも(特にフランス国家を想起する)。また、これはファシズムをすすめる国家側だけではなく、少数派になりがちな反体制派の運動でも、特にラディカルなものではメカニズムが働いて結束が強化されて、その結果として先鋭化してしまうように思う。

ファシズム的と呼びうる様々な運動にはほぼ共通して、複雑化した現代社会のなかで生きる人びとの精神的な飢餓感に訴えるという本質的な特徴がある。それゆえ、そうした運動が人びとを動員しようとするやり方も、きわめて似通ったものとなる。すなわち、強力な指導者のもと集団行動を展開して人びとの抑圧された欲求を解放し、これを外部の敵への攻撃に誘導するという手法である。

第一次世界大戦後、ワイマール体制下で政党が分裂して議会が紛糾してものごとが進まなかったドイツでは強力な政治が期待されていたというのもあるかもしれない。

教育は、社会に根ざした道徳を次世代に継承しつつも、その道徳をより適切なものへと刷新していくことを一つの使命としている。体験を通じて集団行動の危険性に目を開かせる取り組みは、道徳の継承のみならず刷新もはかることで、従来の教育の限界を乗り越えようとする

難しいのは、教育が重要ではあるけれど、教育する主体も権威であってそれに従わせる側面があるということ、そして権力を握ったファシズムは教育にも手を出すことかなあ。これは、ミルグラムの「服従の心理」の2012年版で訳者の山形浩生も触れていた気がする。

ポピュリストたちは「噓つきメディア」や「人民の裏切り者」を執拗に攻撃するが、それは自分たちの「声」が不当に抑圧されていると感じる人びとの不満に訴え、既成体制に対する激しい抗議の波を引き起こすことをねらうからである。彼らは自分たちを縛るあらゆる制約を打破し、それまで表明を禁じられてきた本音を堂々と主張することを求める。それゆえ、リベラルな価値観を押しつける「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」には激しい敵意が向けられることになる。ポピュリストたちにとって、メディアがふりかざす正義や良識など、自分たちの感情を抑圧するだけの空虚なご高説にすぎない。「差別なんて知ったことか、好きなことを言わせろ」という感情、一種の「タブー破り」の欲求が、彼らを過激な言動に向かわせる動機であり、魅力になっているのである。

こうした感情のもとになる被害感のようなものを社会でどう扱っていくといいんだろうか・・・。経済不振がまず大きなキーなようには思うけれどそれだけではなさそう。

こうした運動が多数派の共感を獲得し、世論全体がヘイトで染まるような事態を防ぐには、「ファシズムはいけない」などと理性に訴えるだけでは不充分で、場合によっては逆効果にもなりうる。むしろ私たちは、運動の参加者たちが味わう解放感、自らの感情を何の制約も受けずに表現できる「自由」の魅力に注目しつつ、彼らの感情に積極的に介入することで、過激化の危険性を摘んでいく必要がある。

これ、教育学当たりの裏付けがなにかあるかは気になる。 思考を放棄して服従し、多数派でいて抑圧する側にまわることは「楽しい」。その楽しさを忘れられないと逆効果になる可能性もあるように思える。虐待の連鎖というか、ブラック企業出身者が転職先でもブラック文化を広めるとか・・・。

ファシズムの体験学習」から得られる最も大きな教訓は、ファシズムが上からの強制性と下からの自発性の結びつきによって生じる「責任からの解放」の産物だということである。指導者の指示に従ってさえいれば、自分の行動に責任を負わずに済む。その解放感に流されて、思慮なく過激な行動に走ってしまう。表向きは上からの命令に従っているが、実際は自分の欲求を満たすことが動機となっているからだ。そうした下からの自発的な行動をすくい上げ、「無責任の連鎖」として社会全体に拡大していく運動が、ファシズムにほかならない。

これは一部の過激な新宗教の勧誘とか運動も連想してしまう。 拡大を防ぐためにメディアや既存の政治家は重要だけれど、一度囚われた人間を戻すのは難しそう・・・

そんなことを思いました。 ちょうど最近は岩波ブックレットで「検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?」という本も出しているけれど、この問いにはあまり関心がないので読まなさそう(必要なひとはいるだろうので意義あるとは思います!)

関連) dai.hateblo.jp

「三体0 球状閃電」すばらしい研究開発SF

三体0を読みました。 あの世界的にヒットした傑作SF三体3部作の前編、prequelです。 でも、三体を読んでいなくても楽しめるし、むしろ三体を読む前のほうが楽しめるかも。実際の執筆順もこちらが先で、中国では単に「球状閃電」という名前で2004年に公開されたということ。

主人公は球電、ボールライトニングと呼ばれる現象に遭遇しこの研究にのめりこんで、大学に進学して勉強を重ね博士課程にも進む。その後、球電の兵器としての可能性に目を付けた軍とかかわるようになっていき、球電の謎を解き明かしていく・・・。

という物語なんだけれど、SF的な仕掛けというかはったりが強いうえに自然で圧倒された。 やや気弱に感じる主人公が研究に取り組んで、博士号取得に苦労したり、研究のスランプに陥ってそこから復帰するさまなど、ちょっと等身大の研究者に近いさまが描かれたSFは珍しく感じる。また、兵器開発というのも重要なテーマになっていて、主人公の葛藤もいい。

いくつかのセンシティブなモチーフがあり、いま中国でこれを書けるのかは少し気になる。ソ連アメリカの剛腕さも迫力があります。

最初1行目の注釈から緊張感があって、1割ほど読んで、え、こんなおもしろくてペース続くの?と不安になって2割くらい読んだところでやばすぎる、となって3割くらいで主人公と同期して放心しかけて、5割くらいでまじで、となって勢いで読み終えたしまった。

SF初心者にも読みやすいとも思えます。

以下ネタバレ感想。

まず、

本書における球電の特徴やその動きの描写は、すべて二〇〇四年時点の歴史的事実に基づく。

という注釈からはじまる作品で緊張感が高まる。

林雲や丁儀など中心的な登場人物も特徴的で鮮烈だけれど、指導教官の張彬が地味に味わい深くてよかった。趙雨や高波も、どこか大学にいそうな感じがとてもいい。でも、主人公、球電に翻弄されつつのめりこむ陳の等身大さが自然で物語にのめりこんでしまった。

一番好きなシーンは

「大佐、すぐに戻れますか?」「戻って何をするんです?」「球電の研究ですよ、もちろん!」

これは三体IIでの羅輯のひらめき、にも通ずるものがある。 その前のスランプ中の生活が具体的でよかったけれど。

新しい生活になじもうと努力した。オンライン・ゲームに課金し、サッカーを観戦し、バスケットボールをプレイし、徹夜で麻雀をやった。専門書はすべて図書館に返却し、かわりに大量のDVDをレンタルした。株もはじめたし、小犬を飼おうともした。シベリアで手ほどきされた飲酒の習慣が尾を引いて、ひとりで飲むこともあったし、知り合ったばかりのいろんな友だちとも飲みにいった。恋人を見つけて家庭を築こうとも考えた……が、まだそのチャンスに恵まれていない。午前二時まで偏微分方程式を見つめたままぼんやりすることも、十数時間コンピュータを見守りつづけて最終的に失望の憂き目に遭うことも、もうなかった。(中略)自分がいままで見下していた人たち、もっと言えば憐れんでいた人たちが、みんなぼくよりずっと充実した生活を送っていたのだとはじめて悟った

この葛藤、ちょっと刺さってしまった。自分はなにかひとつのことに執着できていない・・・。

地味な研究だったとさらっと流された張彬の研究が後半に生きるのもあつかった。

テロリズムの描き方にはすこし唐突さも感じたけれど、個性的なテロリストのインパクトと、兵器としての使い道と終盤での使われ方にはつながった。もうちょっと共感できそうな動機や葛藤があってもよかったかもはしれない。

戦争の描き方は巧妙。主人公は軍にかかわっているけれど、あくまで間接的に外の世界の出来事として描いて、経緯にもまったく触れず、相手の国名も明示はしない。 とはいえ、「カール・ヴィンソン」や「ジョン・C・ステニス」「ハリー・S・トルーマン」という艦名からはアメリカなことは明らかではあるけれど、その強大さを描けていて、中国・アメリカ、どちらの人が読んでも自尊心を害さないようにも思える。

印象的な丁儀のセリフ

物理学者はこの世のことなんかなにも気にかけていない。二〇世紀前半、物理学者たちは原子力エネルギーを解放する公式と技術をエンジニアと軍人に引き渡したあと、広島と長崎が支払った代償を見て、欺かれ傷ついた純粋無垢な人間のようなポーズをとった。どうしようもない偽善者だ。実際は、自分たちが発見した力が現実にどう働くか、見たくてたまらなかったくせに。これこそが彼らの、いや、ぼくらの本性だ。ぼくと彼らの違いは、ぼくが偽善者じゃないことだ。

読んだら感想を教えてください。ビデオチャットでもかまいません。

三体についてはここでも書いていた。

dai.hateblo.jp

「サタデー・ナイト・フィーバー(1977)」70年代ブルックリンの若者たち

疲れた週末の夜、なんとなく Amazon Prime Video で並んでいた中で気楽にみれそうと選んだ映画だったけれど思いの外に楽しめた。ひさびさに見た映画。

ディスコでフィーバーする映画かと思っていたし、そういう場面も盛り上がるんだけれど、その裏でニューヨーク州ブルックリンに暮らす20歳前後の若者たちの鬱屈とした状況の描かれ方がよい。

(以下ネタバレあり)

主人公たちは今でいうパリピ*1。ダンススタジオで練習し、オシャレをして週末は仲間たちとディスコで踊りキングと呼ばれるし女たちも群がってくる。

それにも関わらず、鬱屈としたと書いたのは主人公のトニーは時給4ドル(?)でペンキ屋で働き、父は失業していて母は神父になった主人公の兄を誇りにして兄からの電話がくることを神に祈る生活をしていることや、主人公の友人はガールフレンドを妊娠させてしまい、(キリスト教社会でしてはいけないという規範のあっただろうなかで)中絶させるかどうかに悩み続けていること。そんななか、家族の誇りでもあった主人公の兄は突然家に現れ神父をやめたことを告げる。

こういうスター性があってハイスクールでもきっと高いカーストにいただろうヤンキーたちの裏の複雑さと関係性の機微はおもしろい。「桐島、部活やめるってよ」を思わせた。

主人公がダンスコンテストに誘おうとしたヒロインのステファニーもユニーク、ここまで自慢げで鼻持ちならないヒロインいたんだろうか。マンハッタンで暮らすことにあこがれて橋ひとつ挟んでのブルックリンとの雰囲気の違いにも驚いた。

あとはステファニーをなぐさめるのに建築うんちくを語りだした主人公もいい。

劇中ではコンテストに出る以上の野心や将来、アメリカンドリームを思わせるものは描かれなかったけれど、トニーはどうなるかも考えてしまう。ダンスを見出されてスターダムにあがっていってステファニーとなかよくやっていけるだろうか。あるいはどこかで見切りをつけて平凡にやっていくのだろうか。そしてブルックリンに残ったほかの仲間たちはどうしていくだろう。なんとか定職をみつけて大人になっていくのだろうか。と。

あとは、日本で同じような若者はどこにいっているんだろう。いわゆるクラブとはちょっと違うようにも思うし、どこかイキることのできる場所あるのかな。

親に嘱望されて神父になったものの自分でやめる選択をして旅立っていった兄貴がかっこよかった。

街の風景もおもしろいし冒頭のピザのテイクアウトはおいしそうだし、ステファニーといったカフェの雰囲気もいいし、仲間といったチェーンのハンバーガー屋 White Castle のハンバーガーもジャンクでよさそうだった。ステファニーのトレンチコートもかっこいい。

ディスコ映画だけあって音楽もいい。 open.spotify.com

46年前。いまのニューヨークは全然違うんだろうな・・・。

*1:そういえばリア充という言葉は使われなくなりましたね

「歴史学のトリセツ(小田中直樹)」多様な歴史の方法論

ちくまプリマ―新書の「歴史学のトリセツ」を読みました。学問として確立しているようにみえる歴史学のさまざまな潮流をわかりやすく説明していて、アカデミアのダイナミズムのようなものを感じられるのがよかった。

まず、授業で学ぶような歴史はなぜつまらないかというと、これは歴史学の主流をつくったランケに連なるランケ学派の特徴によるという。ランケによれば歴史学とは「それは実際いかなるものだったか」を明らかにする学問領域であり、その根拠を公文書をもとにする実証主義だったこと。

これは客観性を確保するために意味はあるけれど、これによって記憶が排除される問題もあった。かなり極端な例だけれど、ポーランドでのソ連軍による虐殺、カチンの森事件第二次世界大戦後のポーランドソ連の衛星国だったことから、ドイツの所業であると公式見解になったのもあるし、政権交代時には前の時代を悪く記述する歴史書が編纂されたという問題も想起する。

また、知識を欠如した非専門家に向けて、専門家が知識を与えるという、科学技術社会論(STS)でいう欠如モデルにもつながっているのと、国家を単位に歴史を記述するナショナルヒストリーに傾斜しているという問題もあるという。

そんな歴史学に対して、アナール学派、労働史学、世界システム論、比較経済史学やパブリックヒストリーなどさまざまな方法論が生み出されている。それぞれ、着眼点と切り口が違うことで過去を別の角度から解釈できて興味深い。ただ、着眼点の違いによってどんな問題を解決できるかは気になった。

著者の東北大学の経済学研究科教授、小田中直樹先生は歴史学のおもしろくなさに問題意識をもっていて、どうおもしろくするかを気にされているけれど、歴史学のおもしろさは最近の日本スゲーとか「太平洋戦争で植民地を解放した」みたいな方向にもなりかねなくて危うい気もする。

いっぽうで自分が歴史を学ぶモチベーションを考えてみると、単なる好奇心が大きいようにも思うけれど、心のどこかではなんらか役に立つものを求めているのかも。これは「愚者は経験に学ぶ、賢者は歴史に学ぶ」というビスマルクの発言の誤訳の影響もあるかもしれないし、暗黒の未来を生きていくのに過去のパターンを参考にしたいという臆病さもあるかも。

過去におきた真実には到達できず、近づくことしかできないし、近づいたとしても(人間が読める形には)記述しきれないことから歴史学にはさまざまな方法論があるように思える。情報学なんかだと解決したい問題ありきだし、自然科学だと真実にアプローチする手段は多数検討されても優劣が比較しやすかったりで歴史学ほどは分派しないようにも思う(仮説はたくさんああるにせよ)。歴史学より派閥がわかれているのはマクロな経済学くらい?これは実経済に対してきわめて小さな規模でしか実験ができないにもかかわらず、為政者から知見を求められるからなんだろうか。とか考えました。

「ヒトラーとナチ・ドイツ」(石田勇治)を読んだ

石田勇治先生の「ヒトラーとナチ・ドイツ」読んだ。民主的なワイマール憲法下でなぜヒトラーが権力を握るに至ったか、ホロコーストを実行する組織はどうつくられたかが書かれていて恐ろしくも学びがあった。

第一次世界大戦後、多数派政党が形成できず議会が機能不全をおこしていたなかで保守派が首相の権力を強化しようと考えていたところに支持を伸ばしつつあったヒトラーを傀儡にしようと首相にしたところが返りうちにあった、そして権力を握ったことでメディアと治安組織に影響力をもって左派勢力を弾圧し権力を強化したという。この構図はトランプ現象を思い起こす・・・。

驚いたのはヒトラーは国際的なユダヤ人ネットワークがドイツを苦しめていたと信じていたらしく、ユダヤ人追放にかなりリソースをさいていたということ。これは現在の陰謀論にも通じそう。ユダヤ人追放で住居、財産や役職を得たドイツ人が多かったこと、ロシア侵略が失敗し追放先が白紙になったことで殺戮に切り替わったこと、そこでは障害者の安楽死に従事していた人員とノウハウが活かされたのは怖すぎる。

おもしろかったのは反乱を恐れるヒトラーのもと組織間の連携をとらないようにしたり省庁間を競わせるようなところがあったということ。ヒトラーの単独支配というよりは、最近の研究では多頭支配だとみられているのも興味深い。ほかの共産主義独裁国家は単独支配に近そうかな。国家運営が複雑になっていたということや各ナチス高官は公職のほか職業や地域コミュニティの役職も兼務するなど猟官に盛んだったというのも戦乱期の中国を思い起こす。

そんなドイツで電撃作戦を成功させてパリ占領を達成するなど軍事的には強力だったけれど、これを裏付けるだけの統制されたロジスティクスがどうなりたったかとか、大衆はどうしていたかとかは気になるところ。

ナチスの経済政策はよかったのでは」というさかしらな質問をたまに目にするけれど、これについても回答されている。パーペンら前政権の財政出動の成果がではじめていたり、景気回復の準備ができていたこともあるし、若年層の勤労奉仕制度で労働力供給を減らしたり、女性就労者を家庭に戻すことなどで失業率を回復させたことは事実。アウトバーンについてはもともと着手されていたし、ナチスの宣伝によって成果として記録されたこともあるそうだ。

ちなみにこの質問がたびたび出てくるのはナチスを絶対悪とみなすことへの反感だとは思う。もちろんナチスのしでかしたホロコーストや侵略という行為は許されざる人類悪なんだけれど、ヒトラー政権はワイマール憲法下でまがりなりにも合法的になりたっていたものだし現在の自分たちの営みとも地続き。これを絶対悪としてみなして距離をおくことは学びの機会を失ってしまうと思うので質問自体を愚かだと判断するべきではないとは思う。

インボイス制度の本質と雑感

インボイス制度がはじまるにあたっていくつか思うところがあったので書いてみる (あくまで自分の理解でしかありません。税務についてアドバイスはできないので、必要でしたら税理士か税務署にご相談ください)

まず、インボイス制度とその本質について3行で説明する

  • これまで事業者が顧客から受け取った消費税は、仕入先に払った消費税と相殺して(仕入税額控除)、売上税額と仕入税額の合計を計算して納税額を決定していた(帳簿方式)が、今後は税の流れを追うために仕入先ごとにインボイス(適格請求書)を必要とする
  • 売上1000万円以下や創業2年内の事業者は免税事業者であって、消費税を受け取っていても納税する必要はなかったが(益税)、免税事業者はインボイスを発行できない
  • 仕入先が免税事業者だと仕入税額控除できなくなってしまい、そのままでは買い手は損してしまうため仕入先に課税事業者になるか価格を下げるよう直接的・間接的な圧力がかかる(免税事業者のままなら消費税の請求を断ったり、新規取引は課税事業者に限定されたり、)

はい。わかりましたか?たぶん税金に興味がないとわからないと思いますが、これがエッセンスです。

補足としては国税庁のこの資料をみたり、さまざまな解説を読むとじわじわわかるはず(日々特例が増えていてややこしい・・・)。 https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/zeimokubetsu/shohi/keigenzeiritsu/pdf/0022001-174.pdf

じゃあ、このインボイス制度の問題はなにか。まず小規模事業者(建設業などの一人親方、美容師やアニメーターなどのフリーランスや農業者など自営業者に多い)に、課税事業者になるように圧力のかかる制度で、かれらの事務コスト・納税コストが増えてしまう。納税分値上げすればいいじゃんという話もあるけれど弱い立場になりがちで価格転嫁しにくい。これを、事業者が仕入先に圧力をかけるような、納税者同士が対立するような構図をつくっているのがずるい。

そして、事業者としては仕入先が課税事業者かどうか確認するコストがかかる(インボイスが適切かどうか判断したり、価格付けが適正か判断するのもたいへん)。 実際に、自分が話をきく農業者ではもうよーわからんし課税事業者にはならんわ、と宣言している人も少なくなく、そのコストは流通事業者と農業者が負うことになる*1*2。 これらのコストはまわりまわって消費者にもはねてくる。各産業を下支えしている小規模事業者が退出したり、参入しにくくなることで失われる文化もある。例えば個人経営のカフェが維持できる売り上げの目安は月100万円だけれど*3、ここから免税事業者でぎりぎり続けているところも少なくないことが推測できる。

全員大企業の傘下になれば効率的では?と自分も十代のころは思っていたのですが、みなさまのお勤めの大企業は効率的ですか。自信をもってそうと答えられない方が多いと思います。わかりやすい例では、マッカーサーの農地解放で小作農が自作農になったことで生産性があがったというように、自営業者ゆえの低コストさもある(労働環境が保護されていないという別問題はあるけれど、それによるコスト減にわれわれ消費者が甘えている構造がある)。

ちなみに頻出誤解として、免税事業者に10%消費税を払っているのにポケットにいれてるのずるくない?いう益税批判があるけれど、免税事業者は消費税を受け取るだけではなく、当然かれらも仕入先には消費税をおさめているので10%まるっと利益にしているわけではないし、小規模事業者は立場上弱くなりがちで、消費税を受け取る値段設定でなんとか生活できるレベルまで値下げ圧力を受けていることもあるのでこの批判は適切ではないように思う。またある事業者が免税事業者に消費税を10%払っていたとしても、これはその事業者にとっては仕入税額控除できるし、その分を価格交渉にも使っている(消費税を払うから値上げしなくてもいいでしょ、とか)事例もあるし免税事業者だけが利益を享受できていたわけではない。

ほんとうは消費税の流れを捕捉することで脱税を防いで益税を減らすというのが目的なのであれば、免税事業者でもインボイスを発行できるようにしつつ、免税事業者の条件を厳しくすればいい。たとえば免税事業者を個人に限るとか免税点を下げるとか(以前は売上3000万円以下が免税事業者だった)。そうじゃなく、課税事業者と免税事業者を対立させようとする構図が気にくわないし、事務負担を軽視した制度設計で残念なのです。

以上、誤解の多いこの制度について解説と残念さを書いてみました。ご意見ご質問、みなさまの納税エピソード歓迎しています。
税理士法により個別の税務についてアドバイスはできないので、必要でしたら税理士か税務署にご相談ください)

余談:消費税制度について

  • 消費税をなくしてしまえ論もあるんだけれど、景気に大きく左右される法人税所得税と比べて安定財源としては意義があるとは思う
  • ただ、消費税は滞納が多いし、利益が出ていないにもかかわらずの強引な徴収もあるし問題もある
  • また、人件費は仕入税額控除できないいっぽうで派遣や業務委託は仕入税額控除できることから非正規雇用を増やすという批判もある(これの妥当性はわからない)
  • 金融危機の景気支援や資本逃避(キャピタルフライト)を避けるために法人税所得税を減税してしまっていたけれど、もうちょっと戻していいとは思う

参考

note.com

漫画家の佐藤秀峰さんの苦悩。事業者が取引先に課税事業者になるように圧をかけるか値下げ圧をかけざるを得ない構造になっている

現行のインボイス制度導入反対について | 漫画家協会WEB 漫画家協会も反対している

こんなボイコット運動もある様子。インボイスがはじまることで消費税率をあげやすくなるかどうかはよくわからない。

コスト増が想定される例。ひとりひとりに、課税事業者の登録番号を教えてもらうのはたいへん。

novtan.hatenablog.com

id:NOV1975 先生による記事。こういう視点もあるけれど、 制度設計としてはインボイスを免税事業者でも発行できるようにする&免税事業者を個人に限る(or免税点を下げる)ほうが筋がよいとは思うのです。あと、フリーランスで年商1000万円以下ならつよつよエンジニアではなさそう。

ジャーナリストの書いた本。さらっとクルーグマンフリードマン、ハーヴェイなどにインタビューしたと書いていてすごい。各国の税制の歴史についても触れていて入門書として便利

輸出戻し金への誤解とかはあったけれど、歴史や現場の状況を拾っていておもしろい

*1:ちなみに平成30年の主業農家の平均農業所得は662万円です

*2:農協特例や卸売市場特例が使えるひともいるが

*3:参考)キーコーヒーの記事 個人経営や田舎カフェの平均的な1日の売上とアップさせる方法 - カフェ・喫茶店開業ナビ

読書メモ:「日本会議の正体」(2016, 青木理)

読んだ。政治家を含め多数の関係者にインタビューしていて、なにかと黒幕的に語られるこの組織のことについて知ることができた。 日本会議のやろうとしていることのいくつかは全然賛同できないし、国益を損なっているところもあるとは思うけれど、(旧統一教会のように)邪悪な組織ではないし、なんというか地域のノスタルジー活動家互助会のでかいやつみたいな印象だった。全国にネットワークをつくって地方議会に働きかけて中央を動かそうとする「社会運動」のノウハウをつくっているものの、目指すところは「古き良き日本」という関係者間でも合意を得にくいところでふわっとしてしまっている。

夫婦別姓を認めない姿勢とか歴史修正主義とか、ひとつひとつの行動は批判できても組織について筋道つけて批判は慎重にしないとレッテル貼りにしかならず分断を招きそうだ。

いくつかおもしろいところはあった。 まず、成り立ちとして、生長の家を源流とする運動と神社本庁を中心とする神道系が中心になったこともあるんだけれど、組織だっていた左翼運動へのカウンターという側面も大きいようだ。これは、ネット上での反野党として団結するような動きとも通じるところがあるかもしれない。

そして、1997年の日本会議設立後はじめての中央大会で決議された7つの目標について、憲法調査委員会の設置や防衛省の設置、北朝鮮による日本人拉致疑惑の解明と救済にならんで、「夫婦別姓制度の導入反対」が挙げられているのが目を引いた。これは単に前年に国会で話題になったからというだけな気もするけれど、どういう背景があるんだろう。このへんの家父長制への憧憬は旧統一教会とも通ずるところがあるようにも思える。ただ、著者の姿勢は前のめりにすぎるかなあ(稲田朋美のインタビューでの深読みとか)。

あとは精神的・資金的に大きな支柱となっているものとして明治神宮が挙げられている。昨今は再開発でもめているけれど2011年時点でグループの明治記念館だけでも年間売上約110億円というのがすごかった。

ちなみに何度も出てきて日本会議の主要メンバーを何人も輩出している新宗教の「生長の家」は教祖の谷口雅春は戦争推進を支え戦後は改憲と強く主張していて創価学会公明党の躍進に危機感をもって政治運動も強力に進めたけれど、途中、政治運動は放棄して3代目になると安倍政権に明確に反対するようになったりとなかなか複雑でおもしろい。

ほかおもしろかったところ

  • 1989年に首相になった宇野宗佑は神楽坂の芸者を月 30 万円で愛人として囲っていることをサンデー毎日が報じたもののマスコミは黙殺、ただし米紙が報じるとそれを逆輸入する形で各新聞も報じて退陣に追い込まれた
  • 1993年の皇太子の結婚相手についても報道協定があり報じられなかったなかでワシントンポストが記事を掲載し、日本のメディアも慌てて追随した
  • 日本会議についても海外での報道から国内メディアにとりあげられるようになった

このあたりのメディアの自重は知らなかった。

日本会議が設立大会で披露した「基本運動方針」

  1. 美しい伝統の国柄を明日の日本へ 国民統合の中心である皇室を尊び、国民同胞感を涵養する
  2. 新しい時代にふさわしい新憲法を わが国本来の国柄に基づく「新憲法」の制定を推進する
  3. 国の名誉と国民の命を守る政治を 独立国家の主権と名誉を守り、国民の安寧をはかる政治の実現を期す
  4. 日本の感性をはぐくむ教育の創造を 教育に日本の伝統的感性を取り戻し、祖国への誇りと愛情を持った青少年を育成する 以下省略

このあたりを読むと民族主義的な保守としてはまあふつう。

2015年4月現在での日本会議の会員は約3万8000人。この前年の2014年4月時点では約3万5000人だったというから、着実に会員を増やしているといっていい。 正会員の年会費は1万円。このほか維持会員3万円、篤志会員 10 万円、女性会員5000円といった会費が設定されてはいるものの、単純に全員が正会員だったと計算すると年間の会費収入は3億8000万円に達する。

年粗利数億円規模の組織なかなかすごい。

時事問題にかんする声明文や行事ごとの決議文などは 10 人ほどで構成される「政策委員会」の審議を経て概略が決まるらしく、日本会議関係者によると、メンバーには百地章(日大教授)、大原康男国学院大名誉教授)、高橋史朗(明星大教授) らが名を連ねている。いわば日本会議の“理論的頭脳”というべき面々だが、このうち百地と高橋もまた、もともとは生長の家学生会全国総連合(生学連) の活動家出身

高橋史郎は親学推進協会理事長で、発達障害は教育で治るとか主張しているトンデモ。教育を大切にすることを基本運動方針に掲げているのなら教員の待遇や環境改善などすすめてほしい。

そんな感じです。

子連れ宮崎観光日記

先日、2歳児を連れて妻と自分の3人で宮崎県に1泊2日で旅行してきました。

南宮崎駅からの景色
乗り換えで降りた南宮崎駅からの景色。南国。

遠出の旅行をこれまで敬遠していました。近所にもおもしろいところがあると思っていて、わざわざ時間とお金をかけて飛行機に乗るのなら近隣のまだ行ったことのない場所にいった方が楽しいし、遠くに行くのと同じように未知を経験できるし疲れないしついでに安い・・・という考えをもっていたのですが、ANAのセールで片道1万円で行けそうだったこと*1と、子が2歳のうちなら無料で飛行機に乗れるということ、そして飛行機大好きな妻の一押しで今回行くことになりました。

なぜ宮崎かというと、ここは妻の妹の夫、つまり義弟の出身地で、その高齢の母が1人で小さな商店を営んでいるというのを聞いていたことも後押しになっています。子の写真を家族で共有できる便利アプリ「みてね」を通して頻繁に妻の母がコミュニケーションをとっていたり、いろいろ話をきいていて勝手に親近感をもっていたというのもありました。

住んでいる高鍋町に会いに行ってみると、聞いていた以上に気さくで元気で歓待してくださいました。 まず、お店に近づく段階で近所の人がお店まで案内してくれて今本人はちょっと出かけているからお店で待ってて、と教えてくれるという関係性があるのが面白い。 そして自分の子にとっての従姉であるお孫さんの話や、息子さんのはなしや地域のはなしをいろいろと聞けました。いろんな子どもが遊んだというおもちゃも出してくれて子もお店の中で遊びまわっていて落ちつけはしたかったけれど。

電車とバスで来たというと驚いていましたが、これは自分の実家近辺とも同じ反応で車社会っぷりを感じます。
ちなみに、今回は3回ほど宮崎交通のバスを使ってみて大変体験が良かったです。交通系ICカードも使えるし、バス停のQRコードを読むと次のバスがいまどこにいるかすぐわかるしとても便利。なにより、運転手さんもお客さんもとても感じよかった。 車を使ったほうがいろいろ便利とは思いつつ、次もバスを使いたくなります。

高鍋駅前バス停に近づく宮崎交通のバス
高鍋駅前バス停に近づく宮崎交通のバス

この高鍋町、駅は海沿いにあって駅の周りはあまりなにもないのですが、町中?の住宅街の間にはいろいろよさそうな飲食店が点在しています。 はじめは名物の高鍋餃子を食べに行こうかと餃子専門店を狙っていたのですが、30分待ちとのことで町中華の吉宝。

こんなお店が近所に欲しい、いい感じの町中華でした。 ついついマーボーカツ丼を頼んだのですが、麻婆豆腐部分もカツもハイレベル。棒棒鶏や水ギョーザもしっかりしていてよかった。おすすめです。

中国料理 吉宝のマーボーカツ丼
中国料理 吉宝のマーボーカツ丼

今回はANAホリデイイン宮崎という、青島にほど近いリゾートホテルに泊まりました。海側の景色がいいらしいですが、その反対側の中でも窓からは外が見えない安めの和室です。

ここでのトラブルは、売店が酒販免許の更新手続きに失敗したのかお酒がなかったこと(そんなことある?)。

ホテルは子供の国駅という不思議な名前の駅から徒歩8分ほどでしたが周囲にお店はほぼありません。 妻にとって一番最悪なことは、飲みたいときにお酒がないことなのでこれは由々しき事態です(二番目はお酒がまだあるのにツマミがなくなること)。空港で買っていたお酒は道中で尽きていました。

聞き込みによって7階,9階のプレミアムなフロアの自販機では缶ビールが売られているそうでことなきを得ていましたが、お酒好きな方はご注意ください。

このホテル、サーファーが多くてインテリアも不思議なのですが温泉の泉質はかなりよかったです。肌がぬるりとする感じ。2歳児も打たせ湯を触ったりしつつも落ち着いてすごしていました。

海は近いですが、遊泳はできずサーフィンのみの様子。波が高くて早くて危ないので波打ち際も要注意です、ここなら波跡もないし大丈夫かな、というところを2歳児と歩いていたら一気に波がきて足を濡らして子はちょっと怖い思いをしてしまいました。海の危なさが伝わる機会にはなったかな・・・。

翌日は青島までいきましたが夏の海です。鬼の洗濯板は潮だまりが無数にあって無限に遊べてしまいそう。参道をそれて岩のうえを歩くと、2歳児からは、ハイッチャダメダヨと引き止められてあまりみれませんでしたがカニをたくさん捕まえているキッズもいました。

青島 鬼の洗濯岩
青島 鬼の洗濯岩

そんなこんなで宮崎を楽しめました。 宮崎空港では、夢かぐらという居酒屋で冷や汁を食べて(名物でもあるらしいカツオやアジは売り切れだった)、隣のわだつみという寿司屋でもいくつかつまみましたが、ここでのサワラ(霜降り)、アジ、コハダがよかった。2歳児は胡瓜巻きと穴子巻きを吸い込むように食べていた・・・。

そんなこんなでよい旅でした。

以下いくつか写真

飛行機から見る高知県の横浪半島。リアス式です
飛行機から見る高知県横浪半島。リアス式です

宮崎ブーゲンビリア空港。日本神話を描いたステンドグラスや巨大ナッシーで賑わっています
宮崎空港。日本神話を描いたステンドグラスや巨大ナッシーで賑わっています

宮崎ブーゲンビリア空港の清掃スタッフはポップなスタイル
宮崎ブーゲンビリア空港の清掃スタッフはポップなスタイル
ブーゲンビリアというと、名アニメ、スタードライバーを連想します。あれも舞台は南国だった。

787系はメカメカした見た目でかっこいい
787系はメカメカした見た目でかっこいい
JRの特急ひゅうがは、幼いころに読んでいた電車の本で「つばめ」として紹介されていた787系です。メカメカしいデザインで本でも異彩を放っていましたがはじめて実物をみました。 隣には、すぐあとに発射する、36ぷらす3という九州を一周する観光電車もとまっていました。黒くて金文字でスペシャルな感じ。なかなかよさそうです。 https://www.jrkyushu-36plus3.jp/

高鍋駅
高鍋駅
海にかなり近く緑豊かでなかなか渋い駅でした。今年建て替えるらしいです。

青島ビーチパークでビール
青島ビーチパークでビール
フィッシュアンドチップスも良かった。

青島のトゥクトゥク
青島のトゥクトゥク

「物語 アイルランドの歴史」(波多野裕造)を読んだ

従妹がアイルランド人と付き合いだしたものの、祖母が英語もアイルランドのこともわからないと言っていたので手に取ったんだけれどかなりおもしろかった。

アイルランド大使の波多野裕造が日本ではアイルランドについて学べる手軽な本がないとのことで1994年に書いた本で、歴史や事件や文化について新書にまとまっている。 たしかに、高校世界史でもアイルランドはじゃがいも飢饉で触れられる程度であまり世界史での存在感はない。不勉強な自分にとっては、アイルランド系の移民で活躍している俳優や実業家がいるなあ、とか、かつては IRA のテロがさかんなことが名作マスターキートンでたびたび触れられていたなあ、とか、北アイルランドはイギリス領なことはちょっと不思議、とか思っていた程度だったけれど当然、固有の深い歴史がある。

豊かな自然があって妖精の伝承もあって、ドルイド教が残るなかでクーハラン(クー・フーリンと書いたほうが現代日本で伝わる?)のような英雄伝説があったり、群雄割拠で争いもたびたびあった。さらには「ストロングボウ(強弓)」と呼ばれた優男然とした伯爵でもある司令官や、「殺戮者」というあだ名で知られた伯爵がいたりとかで三浦建太郎の「ベルセルク」の世界を連想してしまった(ちなみにアイルランド独立の立役者にはグリフィスもいる)。

アイルランドはよく妖精の国といわれる。それは森と緑に恵まれ、すぐに霧がかかったり、通り雨のあと木立ちの間に射す陽光から虹が立つ、というこの国の変わりやすく美しい自然環境が、いかにも妖精が棲んでいそうな雰囲気を醸し出しているからで、事実こんもりと茂った古木の薄暗い影には、いつも何かが潜んでいるような気配がある。アイルランドでは晴れたり、曇ったり、雨になったり、という気象の変化が目まぐるしく起こり、一日のうちに春夏秋冬をすべて経験することができる、といわれているほどである。

といった書き出しからはじまるコラムもいくつかあったり、写真もいくつか紹介されているのもうれしい。

アイルランドは、ヴァイキングの侵入や、イギリスからの支配など、わりと苦難の歴史がある。隣の大国イギリスから12世紀以降支配されて、たびたび争いもあったんだけれど、ここでの植民地支配のための試行錯誤が後世の、イギリスの植民地支配の間接統治などに代表される巧妙につながったのかもしれないと思えた。これは歴史に物語を読み込みすぎかもしれないし、植民地支配の比較史みたいな研究もたぶんあるだろうけれど。

もうひとつ興味をそそられたのは独立の過程。とくに、続いていた自治論者による独立運動が下火になって、イギリスとの連合に前向きだった世論のなかで、独立運動側がしかけた武装蜂起がずさんだったためにすぐに鎮圧されて首謀者が処刑されたことが市民の同情心を高めてかえって独立に大きく動いてしまったことには歴史の皮肉を感じずにはいられない。そのあとは独立戦争があってなんとか独立した。けれど、プロテスタントが主流派でイギリスとの連合を求める北アイルランドユニオニストや、全国統一を目指すカトリックが多数派のナショナリストとの争いは IRAテロリズムにもつながっていくんだけれど・・・。

ほか、クロムウェルによるアイルランド迫害がアイルランド独立運動の原動力にもなったというのも興味深い。

あとは、アイルランドの農業史。イギリスの支配効率化のために入植地にしめるプロテスタントの割合を定めたことも気になった。これは、1603年に王位をついだジェームズ一世によって、1000エーカー(400ha)あたりプロテスタント家族10世帯の入植を義務付けたこと。ちょっと数字は怪しいと思うけれどイスラエルキブツや、日本の満州や北海道入植も思わせる。

飢饉の後、小作人たちが組合を形成して大きな政治力を発揮して地主に対抗したことあたりも興味深い。マイケル・ダヴィットにひきいられた土地連盟は、地主との小作料・小作権の争いをバックアップして、1880年ごろには事実上の「第2の政府」となって、裁判の実権を握ったそうだ。ちなみにここで連盟と争った仮借なき土地差配人として知られた(原文ママ)、チャールズ・ボイコット大尉の名は、かれに対抗した農民の不買運動の代名詞になっている。

土地連盟の政治闘争で、小作料が引き下げられて、地主にこれなら売り渡したほうがましだ、となって自作農が増えたというのもマッカーサーの農地改革のような強権的ではない、農地の移譲プロセスとしておもしろい。

ちなみに悲惨なジャガイモ飢饉の農業的背景については、「世界からバナナがなくなるまえに」がおもしろかった。タイトルではバナナだけかと思ったけれど、さまざまな食糧危機の現場と農学者にフォーカスした良書です。

ここでもちらっとふれていた。 www.on-the-slope.com

というわけでアイルランド、行ってみたくなりました。昨今、味が変わったと話題のギネスにも行ってみたいですね。

「スマート・テロワール」は地方の生存戦略になるか?

カルビーの二代目社長の松尾さん(故人)による農村再生マニュアル「スマート・テロワール」(2014,松尾雅彦,浅川芳裕)を読みました。 農村部の問題や、諸外国での事例、過去の研究などを引き合いに出して農村が自立して発展していくための方法を説いているし、具体的な始め方まで丁寧に書いていておもしろい。

その作戦を強引に要約すると過剰な水田を畑地にして麦、大豆や飼料用トウモロコシなどと輪作・耕畜連携し、地域の特性を活かした加工品製造もして雇用を確保していくというもの。雇用を確保することでUターンも増えて人口問題にも対処することで地方の未来は明るい、とまで言い切る。

大きなコンセプトとして感挙げるととてもおもしろいし都市じゃないけれど都市設計(Urban Design)的なわくわくするところがある(この対義語はなんだろう・・・)。

ただ、一部納得できるところもあるし近いものをコンパクトな事例としてやっているところも知っているけれど、これを地域で取り組むにはいくつか足りないところがあるように思えた。

まず、なんとか集約してお金をかけて、麦や大豆をある程度の規模つくるために必要な農機をそろえたとして、どれくらいの規模で栽培すると採算がとれるかが不安(本書では加工品の原価例はあるけれど、栽培コストと売り先はちょっと曖昧)。

たとえば、うどん県香川でも、小麦の栽培は1962年をピークに10分の1まで減っているし製粉業者も減っている。でも、執筆当時より円安になった今だともうちょっと取り組みやすいのだろうか、生産者の引退も減って農地もすこしは集約しやすくなっている? 国産小麦の生産は年に100万tほどありますが、現状では供給過多で実需につながっていないそうです*1

もちろん、海外で巨大に作付けしているところと当然価格では勝てないのというのは本書でも書かれていて、それをローカルの加工会社でまきとれるよう地域の消費者と連携していくべきとしているけれど、イメージがわきにくい。

先日お話をきいた醤油蔵、なかなかいけている感じだったけれど、従業員は10人足らずでまだまだ雇用も仕入れもスマートテロワールというには物足りない。 なんちゃって6次化産品ではなく、その地域でナショナルブランドに対抗できる地域発加工品をつくるというのは目標として納得度もあってかなり好きなんだけれど・・・。

あと、自分は全然知らない分野ですが、飼料をつくって豚を育てて加工品をつくることにも紙幅がさかれています。売上の5,6割が飼料代といわれる畜産農家で、国産の飼料でやっていけるようになるにはどれくらいの規模or補助金がいるだろう。 こういう取り組みをしているいい事業者もあるようだけれど、どれくらいまかなえるんだろう。

foocom.net

個人的には、水田の集約とか農地に関心があるけれど、その集約の難しさはあまりわかっていない。むかし水田でいまはパッチワークの美しい畑地として知られる美瑛ではどんな苦労があったんだろう。 ちなみに、実際に全国麦作共励会で表彰された、きわめて優れた生産者の事例では、小麦・大豆・水稲を2年3作でつくっているような事例があって、水田を残しているところも少なくなさそうだけれど、水田を残している意図もよくわかっていない。 令和4年度全国麦作共励会表彰事例:農林水産省

と、ちょっとネガティブなことを書いたけれど、積極的な加工会社があって、農地を転換しやすい事情のある地域で試せるとよさそうだしおもしろそう。本書は、海外事例やカルビーの北海道でのじゃがいも契約栽培のあれこれ、関連書籍の紹介もしておもしろいのはたしか。カルビーへの尊敬度がぐっとあがりました。

また、紙だと1600円するけれどkindle版を99円で販売していて、Webに公式の要約も載せて勉強会も継続してやっている。こういう世の中をよくするためのアイデアを本にして打ち出して普及のための活動しているのはビジョナリーとしてすごい。みどりのあれより受けいれやすい気もする。こういう戦略の提案を参考に、もっとみんな俺の考えた最強の農政/地域戦略とか提案してほしいです(自分が読みたい)。

最後、おもしろかった部分を引用しておきます。カルビーという加工食品会社視点でのジャガイモの取引の実態や契約とか販売戦略とかは具体的でおもしろかった。

カルビーがジャガイモ生産のために全国で契約している農地面積は7000ha。「減反した水田100万ヘクタール」はその約150倍に相当。ジャガイモが生みだすカルビーのスナック製品の売上(工場出荷額) は年間1千億円です。その150倍とは15兆円です。日本を代表する産業である自動車業界の年間輸出額・約12兆7千億円(財務省財務省貿易統計』2012) を超えるほど

ポテチはイノベーション

「販売量 =SC(ストア・ガバレッジ)× 優位置 × 回転」という原則

加工品メーカー視点はかなり具体的でよい

【水田地帯】自給圏内で必要なコメの生産量に合わせた水田の規模を試算のうえ、一定程度の水田を畑作地帯に転換します。水利上の最適を勘案すると下流域は水田が望ましいため、各河川の下流域から水田地帯をゾーニングします。同時に、景観上の最適の両面からも検討を加えます。

農地の所有権とか水路とかの整理、むずかしい・・・

青果のジャガイモは、五 ℃ 以下の貯蔵で糖度が増して美味しく食べられます。低温なので春になってもジャガイモの発芽は見られません。冷凍して調理されるフレンチフライは、水分が多いので焦げ色の心配はポテトチップの場合ほどむずかしくありません。発芽を抑えられるぎりぎりの温度で貯蔵します。水分がなくなるまでパリパリにフライされるポテトチップでは、焦げ目が大敵です。それを防ぐために貯蔵温度を高めに調整しますと、腐敗が進行し発芽が早くなります。腐敗には貯蔵庫の機能改善が、発芽には品種改良が貢献します

食品加工、まじでノウハウの塊・・・。

フードシステムは、地域内で垂直的な統合(インテグレーション) の力が競争力になります。過剰時代になって、川上主導であったものが川下側がリードすることになりました。川下側ではバイイング・パワー(大きな購買力) を使いすぎるところも出てきます。むずかしいことが各所で起こっています。そこで私は、上下をなくし、並列になることを提唱しています。スマート・テロワール内でバイイング・パワーが起こりますと、相互に不信感が増殖し、競争力の敵になります。

北海道でのじゃがいも、オランダでのトマトのような産地づくりが成功するといいけれど、規模がない地域ではむずかしい。

換金作物を優先して儲かっているはずが、じつは貧困を生んでしまっています。自給農業はすでに失われています。換金作物を推奨する先進国は、自国の消費者のために他国の資源を枯渇させる収奪農業をしているのです。

これも悩ましい。。

*1:2023/3/16の日本農業新聞p5より

YAPC::Kyoto 2023 にいってきた

YAPC::Kyoto 2023 に参加してきました。ひさびさのリアル開催での技術カンファレンスです。とはいえ初YAPCだし、ほかのカンファレンスもそう参加したことはありませんが・・・

YAPC とは

yapcjapan.org

YAPC は Yet Another Perl Conference の略で、直訳するともうひとつの Perl カンファレンスです。「もうひとつ」というのは高額な参加費をとっていて主に大企業向けだった The Perl Conference に対して参加費も安く草の根的な動きだということ。1999年にピッツバーグで開催されて以来、世界中に広がっているそうです。このあたりの由来については石垣憲一さんの記事をご参照ください。ヤップシーと発音されることが多いようです。

第37回 YAPC:国際的なイベントなのだ、ということはお忘れなく | gihyo.jp

さまざまなトークテーマをみてわかるとおり、(現在の) YAPC では Perl とあまり関係がなくても、主にWebアプリケーションの技術やその開発についての話題が多いようです。

自分と Perl

勤め先では Ruby や TypeScript, JavaScript で開発されているプロダクトが多く、Perlは使われていませんが、前職ではがんばって書いていました。メインのプロダクトは超巨大な Java を解析し、フレームワークをアップグレードするための調査で、このときにとほほさんのページなどで学んでスケジュールに追われながら試行錯誤してツールを作っていたことがそれまで Java ばかり書いていた中で原体験となっています。
(今思うともっとJavaやWebシステム、テストについて理解があればあの巨大プロジェクトをもっといいようにできたのに・・・!)

とほほのperl入門 - とほほのWWW入門

YAPC::Kyoto 2023

じつは今回の YAPC はもともと2020年に開催される予定だったものの新型コロナウイルスの影響で延期になっていまの開催となったそうです。このあいだにリアル開催のイベントふがなかなか開催できていなかった分、みなにぎこちなさというか新鮮さがあったように感じました。KRPのアトリウムは明るくて不思議な空間だったのもよかったです。 自分もひさびさの技術カンファレンスでどきどきしながら参加しました。

いくつか感想。

【企画】春のエンジニア ぶつかり稽古 2023 kan/kenchan

ぶつかり稽古ってなんだ、という謎セッションに最初に参加。 10年前にひとつの事件になったというイベントがもとになっているそうです。

kentarokuribayashi.com

今回は2人のエンジニアが"土俵"に登場し、与えられたお題について片方がテストコードを書いて、もういっぽうがそれを通す実装をしていくというもの。つまりライブコーディングで画面を共有しながらテスト駆動開発ペアプログラミングしていくもの。 緊張感があったのと、最後ChatGPT4による講評がよかった。

ライブコーディングできる程度に、プログラミング言語の挙動を理解できているか不安になってきた・・・

地方のエンジニアが作る日本のITコミュニティの未来

質問できました。あまりコミュニティに参加しない人にも参加しやすくするためには、もくもく会がいいとのこと、また、大学との連携もおもしろそうです。

Helpfeelさま 公開収録ランチセッション

スポンサーである Helpfeel さんがやっている Podcast の公開収録

open.spotify.com

ちょうどリリースされた ChatGPT4 について激論が交わされて興味深かった。 これをうちの事業でどう活用するかは考えていかないとなー。いろいろ試したいアイデアが浮かぶ時間でした。

新型コロナウイルスでは、飛沫感染が主とのことで黙食が推奨されていましたが、こういうお弁当付きのランチョンセミナーでは自然とみなを黙食に誘導できていいですね。
(お弁当もおいしかったです)

ソフトウェアエンジニアリングサバイバルガイド: 廃墟を直す、廃墟を出る、廃墟を壊す、あるいは廃墟に暮らす、廃墟に死す

moznionさんによる講演。はい。。。 銭勘定上の貧乏だから廃墟に近いところに暮らしている部分もあるんですが、ちゃんとやっていかないと・・・、そしてソフトウェアで金を稼がねば。

デプロイ今昔物語

CGI時代から現代に向かって実演しながらデプロイの話。 おもしろかったし、これも質問できてよかった。

デプロイまわりののユーザの権限やスクリプトの配備などのプラクティスをどう知るといいのか、と思っていたけれど、発信していくことが近道とのことだった。それはそう。

デプロイ今昔物語 〜CGIからサーバーレスまで〜 / The deployment technics - Speaker Deck

法と技術の交差点

情報理工学部情報理工学科教授の上原哲太郎先生と、同じく立命館大学法学部法学科教授の宮脇正晴先生による対談。進行のpastakさんの塩梅もいい具合だった。

話題はChatGPTのことが多かったかな。発話のメモと自分の感想を混在させたメモを書いておきます。

学習の段階では資料の利用に問題ない。出力が既存のものと近いときに問題になる。検索エンジンを日本からいいものをつくれなかったときに後付けで法的理由があったからで、いまは法的には整理されているということ。

NTT東日本前橋市ファイアウォールの設定不備の訴訟でもエンジニア側がまけているのは苦しい。

プログラミングの著作権はむずかしい。アルゴリズムそのものは著作権にならないし、OSSの文化はシェアしましょうとなっている。スペースインベーダー2事件のように丸コピーでなければ、どうなるか。アメリカはよくできていて最後は法廷で、となっている。モラル的には問題になるけれど、書いたコードが流用されたとして法的に勝つのは難しいかもしれない(仕方ないとも思う)。

日本は石橋をたたく文化で、大企業だと慎重になりがちだけれどバランスが難しい。アメリカではフェアユースの規定とかもあるし、法を先回りしたけしからん議論が多いのでは?という指摘は、これからAIを育てようとしたときに不幸になりそう。

GPL問題、一定の企業にとっては大きなリスク。外注でGPLライブラリがまざっているとか まず問題が含まれているコードが含まれているかとか検知するAIがいるかもしれない。ただ、違反した場合にどういう理屈で許されないのか、あるいは許されるのかは難しい。

シュリンクラップ契約は有効か、という議論。cookieまわりでややこしいGDPR、それを選択せざるを得ない契約の意味はあるか(AIに読ませるというのはありかもと思った)

業務での利用においてはリスク判断は重要で、データがどう利用されるかなど要項をよく読んでおく必要がある。

みなさまにお願いしたいのは法律やさんの考えるロジックに勘が働くようになってほしい。こういう議論をたまにしていいプロダクトを作ってほしい・・。とのこと。

グレーゾーンがあるときは民主主義なので、’法律をかえていく、声を出すことも大事です。

あんずさんありがとうございました!

ゲスト講演 小林 篤さん(@nekokak)

法学部卒でエンジニアになって、DeNAでのCTOや事業責任者も兼務していたいた方のお話し。PerlのORM、Tengの開発者だった!

話はとてもおもしろかったし、質疑もよかった。自分は(小さいながら)事業責任者をやってうまくいかなかった分、まぶしかった。

メモ

  • "課題"がキー
  • CTOとしての役割を規定しない。ボトムアップにイシューをみていく
  • ストーリーでつたえる。わくわくして語らないといけない
  • 事業責任者としての立場とエンジニア的視点のコンフリクトはない。目的が共有されて、技術のために技術にしないということがあればよい
  • キーワード:フッ軽

大西さんのキーノート

YAPC::Kyoto 2023 Keynote - Speaker Deck

はてな社の歴史、モブ。知らない歴史が多くておもしろかった。スタートアップの一人目エンジニアでのモブ感の苦しみ、すこしわかるけれど大西さんすごい。

聞けなかったけれど気になった発表

あの日ハッカーに憧れた自分が、「ハッカーの呪縛」から解き放たれるまで - Speaker Deck

ベストスピーカー賞をとっていた。この憧れとギャップは自分もかんじる。事業をすすめることの大切さは小林さんの話とも通ずるものがあった。

どこでも動くWebフレームワークをつくる - Speaker Deck

NOT A HOTEL AIコンシェルジュ「Kevin」の開発秘話 - Speaker Deck

AIを業務にどう使っていくかという具体的なロジックすごい。

感想

どう消化しようか迷っていたらwindymeltさんが言語化してくださった。

ひさしぶりの技術カンファレンスで、インターネットでお見かけした著名な方々と間近に接することができたり話すことができて楽しい時間を過ごせた。安直すぎるけれど刺激を受けました。刺激を受けたことによって、いろんなやりたいアイデアが浮かぶし、知識も広がって、手を動かしてコードを書かねば、という思いがわいてきた。

ひさしぶりに丸一日子守りも仕事もしなかったので気が晴れたというのもある。スタッフの皆様、素敵な空間をありがとうございました。

(会の翌日、YAPCに参加していたインターネットフレンドと大津でカレーを食べたのもよかったです。